2011年12月27日火曜日

バラードをリピート

ニコンD3






12月の午前4時。まだ外は暗い。
遥香は後部座席で軽い寝息を立てて眠っている。心なしか寝顔が微笑んでいるように見える。
僕は起こすのがかわいそうなので、そのままそっとしておくことにした。

「遥香!よかったヨ最高!先生も感心してたよ『なかなかやるな』って。クラスのみんな大盛り上がり!!
やったじゃん!」
遥香は興奮状態で友達の絶賛に対して一言も答えられず、控え室になっている体育倉庫前の地べたにへたり込んでいた。
あふれ出る汗をぬぐうのがもったいない。今の興奮にひたっていたかった。
手応えは十分あった。
いける!
そう思えた。
完全に吹っ切れた。

「進路はどうするんだ?」
「歌手になります。!」
「『音大へ進学』か」
「先生違います。音大へは行きません。東京に行って歌手になります。」

遥香は香川県の県立高校を卒業すると、「歌手」になるため東京に出てきた。
何かのオーディションに合格したわけではない。
ほとんど「あてもなく」上京した。
不安もあったが、それにまさる自信があった。
高校3年の文化祭のライブは大成功だった。
それまでも地元の繁華街での路上ライブでは手応えを感じていた。
それが体育館を満員にした文化祭ライブが決定的な自信につながった。

父は最初は反対していたが「大学に行ったつもりで4年間がんばってみろ。だめだったらとっととこっちへ帰ってこい!」と、なかば諦め状態で送り出してくれた。
卒業してすぐ母と二人で上京した。上京したといっても最初にアパートを探したのは登戸だった。あと1駅、多摩川を渡ると東京だ。
遥香にはこだわりがあった。まだ東京に住んではいけない。一歩手前の川崎市に住んで、歌手で成功したら都内に住む。そう決めていたのだ。登戸の駅周辺で不動産屋を探し、飛び込みでアパートを探した。3件目の物件が気に入ってその日の内に契約をした。駅からは15分ほどで少し遠い。しかし、道を隔てた反対側に多摩川の堤防があってそこまで行くと対岸に東京が見える。堤防も広々としていて歌の練習で大声を出せそうだ。
遥香の”東京”生活の始まりだった。

僕が初めて遥香を見かけたのは9月の終わり頃、夏の終わりを感じる季節だったと思う。
その日、僕は九十九里浜にあるプール付リゾートスタジオで、グラビア撮影を終えての帰りだった。
新宿で首都高速をおり、スタッフを駅に落とすため新宿駅南口に向かった。九十九里から高速で2時間半ほどかかり、新宿駅南口に着いたとき辺りは少し暗くなりかけていた。
南口の横断歩道を過ぎたところで車を止め、アシスタントとヘアーメイクをおろした。車のトランクを開けヘアーメイクの大荷物を降ろし、駅方向に見送った後、雑踏の南口広場でギターを弾きながら跳ねている女の子を見かけた。
斜め後ろから見かけただけで顔はよく見えなかった。
どんな歌を歌っていたかも覚えてはいない。
でもきっとその子が遥香だったと僕は思う。

登戸で、駅から歩いて15分くらいで、アパートの窓から多摩川の堤防が見え、堤防から反対岸に東京が見える。
それしか聞いていなかったので遥香のアパートが何処にあるのかわからない。とりあえずカーナビをたよりに「登戸駅」まで行き、駅から地図を頼りに川沿いの道を走り、止められそうな土手の斜面を少し下り、車を止めた。後部座席に子猫のようにうずくまっている遥香をそのままにして、暖房で暖まっている車内の空気を入れ換えようと少し窓を開けた。
車についている車外の温度計は2°を示している。3センチメートルほど窓を開けると、乾いた冷たい12月の空気が車内に流れ込んできた。
暖房で紅潮気味のほほに心地よく感じた。

10月の終わり頃、インディーズレーベルNAOレコードの社長から電話があった。
内容は、インディーズデビューする19歳の女の子のCDジャケットの撮影依頼だった。
日程を調整し、具体的な内容になったところで、
「今その子ここにいるんだけど、今日時間ある?」
「あ、いいですよ。ヴィジュアルのうち合わせしましょうか?こちらから行きましょうか?」
「いや、当日僕立ち会えないからマネージャーと本人連れて今から行きますよ。」
1時間ほどして、
エレベータホールの方が妙に騒がしくなった。
「おっはよ〜ございま〜すっ」
社長とマネージャに連れられたその子はだぶだぶのトレーナーを着て背中にギターを背負ったまま90°お辞儀をして挨拶をした。
あやうくギターのネックで頭を殴られるところだった。
「とりあえずこんな感じなんですけど・・・」と社長に紹介された。
4人でしゃべっているうちに僕は何となく思い出した。
「新宿駅南口でストリートライブやってない?」
「やってます〜。えっ?しってます〜?」
「ひと月くらい前に偶然見かけたけど、きっとそうだと思う。」
「ん〜そ〜ですか?それはラッキィ」

社長のイメージとしては、
真っ白いところからスタートさせたい。明るくポップに仕上げたい。
と言うコンセプトで僕がアートディレクションを引き受けた。
RAW + jpeg
一週間後、
僕のスタジオでフォトセッションが始まった。
サベージのスーパーホワイト ワイドをホリゾントにし、遥香が絵を描いていく。
僕はそれを寄ったり引いたり、音楽をガンガンにかけながら撮影した。
カメラは「ニコンD3」レンズは「AF-S VR Zoom-Nikkor 24-120mm f/3.5-5.6G IF-ED」
設定はヴィヴィッド、RAW + jpeg
jpegでセレクトした後、使用カットのみをRAW現像し、TIFFでデザイナーに渡す。
ライティングは2400WSのコメットを6灯、スタジオの4メートルの高さの天井にバウンスした。
最初に3.6メートル幅のバックペーパーの端から端まで5色のペンキで遥香が虹を描く。さらにそこに太陽や川や家を描き加えてゆく。
その後、自分が着ている白いつなぎに自分で絵を描き、最後に自分の顔にペンキを塗っておしまい。
3時間のフォトセッションが終わった。

僕は窓を閉め、車内は暖まっているので車のエンジンを切った。
背もたれを少し倒し、音を少し絞って遥香のCDをかけた。
5曲のミニアルバムのラストの曲、小田急線を歌ったバラードをリピートにセットした。

遥香は毎日ブログを書いている。
多い日は1日に20〜30回書き込んでいる。
ストリートライブ情報やレコーディング、もちろん「ジャケ写」撮影の様子も逐一ブログに書き込んだ。
僕は撮影の日から毎日遥香のブログをチェックした。
12月24日クリスマスイブの日、遥香のファーストアルバムがインディーズで発売になった。
僕はその日、スタジオでティーンズファッション誌のファッション撮影をしていた。
モデルカットを終了し、物撮りがおよそ100カット。
撮影は深夜におよんだ。
撮影終了後、年内にデータを納めなくてはならないため、引き続きスタジオで写真セレクトを始めた。
12時を過ぎた頃、そうか?今日はクリスマスイブだ。
と思ったとき、遥香のアルバム発売を思い出した。
撮影終了後マネージャーから、「出来次第すぐに送ります。」という申し出を断っていたのでまだ最終的な仕上がりを確認していない。
「イブの夜、自分で買いに行くから。」と約束していたのを果たせそうもない。
そう思いながら、遥香のブログをチェックした。
「マネージャーと一緒にCDショップを営業でまわっています。」
「店頭でミニライブをやらせてもらいました。」
遥香の元気がおどっていた。
しばらく写真セレクトをし、今日はもう終わりにして後は明日にしようと思い、「ViewNX」を閉じ、
もう一度遥香のブログをチェックすると、
「ショップ営業が終わったので、南口でストリートライブをやります。」
「多くの皆さんが、クリスマスイブにもかかわらず、足を止めて聞いて下さいました。ありがとうございました。」
「大変です。うっかりして終電が終わっちゃいました。」00:40
と、書き込まれていた。
僕は遥香の携帯番号を知らない。
遥香がタクシーで帰るところを想像できなかったので、僕はスタジオの戸締まりをして新宿駅に向かった。

クリスマスイブの新宿西口地下ロータリーは午前1時を過ぎても人がごったがえしていた。
タクシーの列をパスして、ロータリーを廻りきった辺りに車を止めた。
「友達の家にでも転がり込んだかもしれない、一回りしていなかったら帰ろう。」と思い
西口の小田急線改札に向かった。
ギターを持っているから目立つはずだ。
改札まで走って行き、辺りを見回すと遥香がいた。
券売機の隅の方で、キャリーカートにアンプとCDを積み、背中にギターケースを背負ったままうずくまっていた。
ゆっくりと近づき、しゃがみ込んで声をかけた。
「遥香、ブログ見たよ。頑張ったみたいだね?」
遥香はゆっくりと顔を上げた。
「わかるかな?ジャケ写撮ったカメラマンだけど?」
「わかります〜。わかりますよ!どうしたんですか?何でここが?」
「だから、ブログ見たよ!『終電乗り遅れました!』って書いてあったから、迎えに着たよ。家まで送ってあげるから・・」
「サンタだ〜!!!サンタが着た〜!!」
「声が・・大きいよ!人がいっぱいいるから、し〜っ!」
「だって〜どうしようかと思っていたんだもん。このままクリスマスイブの夜、『私は路上で死ぬんだ』って思っていたんだもん。」
「そこに車止めてあるから、寒いから、そこまで行こう。」
僕は遥香のキャリーバッグを引いて、涙ぐんでいる遥香を車に乗せた。

約束より少し遅れたけど、僕は発売の日に遥香のファーストアルバムを本人から買った。

午前6時を過ぎると、辺りが少し明るくなってきた。
東の空が、紺色から青色に変わってゆく。
僕は車から出て堤防から多摩川越しに東京を見た。
相変わらず空気は冷たいが、まもなく日が昇る。

朝の気配を感じる澄んだ空気が心地よかった。




この話はフィクションです。
登場人物は実在しません。
写真はイメージです。

2011年12月26日月曜日

ライカレンズを全部買う その1

ズマロン35ミリF2.8
ライカにはまってしまった僕は、M3からM6までほぼフルラインナップでライカレンジファインダーカメラを買ってしまった件は、
「ライカその3」に書いた通りだが、もちろんカメラボディだけを買っていたわけではない。

ミノルタCLEでレンジファインダーカメラの魅力を知った僕はその後、コンタックスG1でレンジファインダーカメラ熱が再発、その際G1がカバーしていない135ミリレンズを使おうとしてライカにのめり込んでしまった。
そんなわけで、最初に買ったライカレンズは「エルマリート135ミリF2.8」だった。このときは小さなボディに大きなレンズであまりライカレンズの魅力を感じることはなかった。しかも広角系のM6ボディに望遠135ミリを使うのに不便を感じた位で、まだレンズにははまっていなかった。しかし望遠系ボディを求めてM3を買ってしまい、このM3に使おうとライカの標準レンズ50ミリを探し始めたあたりからライカレンズ熱におかされてしまったようだ。

元々はカメラコレクターではなかった。仕事で必要なカメラ、レンズにしかそれほどの興味はなかった。次々と仕事で使えないようなクラシックカメラを買い始めたのはこの時期、写真撮影と平行してもう一つカメラにかかわる仕事を始めていたからだった。
某出版社から出ていた「中古カメラGET !」という雑誌に古いカメラ、レンズの試用レポートを書き始めたのだ。企画は全て持ち込み企画で「二眼レフカメラ ローライフレックス」だったり、「レア物ニッコールレンズ」だったりと自分の持っているカメラの中から、その使い勝手や良いところ、悪いところ、使用上の注意点などを毎号連載で書かせてもらっていた。中でもニコンとライカに関する記事が読者に好評だそうだ。そこで読者の疑問に載っかって僕自身も興味があるカメラ、レンズを自分で購入し、その使い勝手をレポートして記事にしていた。つまり、この記事の原稿料は全て機材購入にあてていたのだ。

デュアルレンジズミクロン50/2
M3には50ミリを付けてみないと本当の良さがわからないだろう、と様々な情報を集めているうちに興味がわいたのが「デュアルレンジ ズミクロン50ミリF2」だった。
レンジファインダーカメラは一眼レフカメラに比べて近接撮影に弱い。普通の50ミリ ズミクロンでは1メートルまでしか近距離撮影が出来ないがデュアルレンジは約45センチメートルまでの近接撮影が可能である。このため「メガネ」と呼ばれるファインダーアタッチメントが付き、2重の距離計カム構造になっていたりとメカ好きにはたまらない複雑な仕掛けで出来ており、かつ、このレンズの写りがすばらしい。一説によるとレンズを組み立てた後、性能検査をし、結果の良かったレンズをデュアルレンジに組み込んだという説もある。一般の方にとっては『良いレンズ』の定義が難しいと思うので、僕の思う良いレンズとは『欠点がないレンズ』と定義しよう。レンズの良くない部分は周辺部に出る。周辺の像が流れたり、ボケたりするのは×。またレンズ開放時に欠点が出やすい。像がにじんだり、輪郭に色がついたり。そんな欠点がなければよいレンズ。デュアルレンジズミクロンは欠点のない、しかも正確な近接(クローズアップ)が出来る理想のレンズだった。

ここでうんちく。『理想レンズ』とは、
点対点対応、
線対線対応、
面対面対応が出来ているレンズのこと。
つまり点が点に写る。円になったり面にならないこと。
線が線に写る。曲がったり、太くなったりしない。
面が面に写る。曲面になったりしない。
これが理想レンズだが、実際はこれらを崩す収差が発生する。
その収差が少なく抑えられ、発色の偏り(色付き)が無く、使える大きさで、買える値段。
これが僕の思う理想レンズ。

この理想に限りなく近い「デュアルレンジズミクロン」と出会い、どんどんライカレンズに興味がわき、比較的古いレンズから買い始めた。
50ミリの次は35ミリだろうと、次に探したのが「ズマロン35ミリF2.8」
最初に購入したズマロンが正に当たりのレンズだった。開放ではやんわり滲み、絞るとシャープに描写するちょっと線の太い良い味のレンズだった。

このあたりのレンズは1960年頃発売された物で、製造からおよそ50年経過しているため1本1本の個体差で当たり外れが大きい。撮影してみないとわかりにくいため一概に「評判」があてになるとは限らない。

ズマロン35ミリF2.8
ズマロン35ミリF2.8が大いに気に入ってしまった僕は次に「ズマロン35ミリF3.5」「ズマロン35ミリF3.5 Lマウント」「ズマロン35ミリF2.8 めがね付き」
そして、「ズミクロン35ミリF2」へとライカレンズの泥沼へずぶずぶとはまっていってしまった。




つづく

2011年12月8日木曜日

ニコンFから教わったこと・・

「あいつ」が現れたのは12月も半ばを過ぎた頃だった。

僕はその日、卒業後初めての大学の同窓会、兼忘年会に出席した。
同窓会というのも微妙で、社会人になってから数年経ちみんなに誇れるものがあれば勇んで参加するが、そうでないとなかなか参加しづらいものだ。
その日参加したのも6人で、地方にいて参加できない、忘年会がダブって入っている等、参加できない物理的理由は色々あると思うが、実際のところ参加したくないほうが多かったと思う。
そういう僕もちょっと腰が引けていた。
フリーカメラマンになって約1年、食っていくだけの仕事はあるがまだまだ同窓生に誇れる状態ではなかった。
参加した6人は天下のH報堂写真部、K談社写真部、S界文化社写真部、小さな制作会社に就職したら会社が大手に吸収された大手制作会社のカメラマン、フリーランスでめきめき名を上げているファッションカメラマン、そこにフリーランス1年目の僕だ。
「車何乗ってる?」
「俺、ミニクーパー」
「お~、でも機材積めないんじゃないか?俺はクラウンのステーションワゴンだけど相当機材積めるぜ!」
いやな展開になってきた。
「おまえは?」ついに来た。
「俺は・・・VF400」
「なんだそれ?」
「いや、ホンダのバイクだョ。」
「それで仕事行くのか?機材ど~すんだよ?」
「いや、意外と積めるんだ。タンデムシートにカメラバックと、コメットの1200くくり付けて、三脚とライトスタンドはマフラーのところに斜めに・・・」
気がつくと、話題は次にうつっていた。

その日僕は飲めない酒を飲んだ。
1人では絶対に飲まないが、つき合いではビール1杯程度。
1杯で顔が真っ赤になり、ロレツがまわらなくなってくる。
2杯で手の力が抜け、グラスが持てなくなり、
3杯で頭が痛くなる。そこでやめてしまうので、僕にとっては4杯以上は未知の領域だ。
3杯飲んだところまで覚えている。
僕が飲めないことを知っているみんなが「おまえも社会人になってオトナになったな~」と褒めてくれたところまでは・・・

小田急線の中では頭が痛く、下北沢駅では足取りもおぼつかずヨロヨロとアパートにたどり着いた。
部屋の電気を付け、ソファーにドスンと座り込んで一安心した。
頭はガンガン痛かった。

ふと顔を上げてテレビのところを見ると「そいつ」がいた。
大きさは猫位で、身体は白っぽいがむこうが透けて見える。頭は三角形で耳ははえていない。
お腹がぽっこり出た「そいつ」は、僕のテレビ台の上で足を組んでふんぞり返り、腕を組んでテレビに寄りかかっていた。
「ついにきた~。未知の領域・・飲み過ぎると見える幻覚か~?」
『なにやってんだ!』
「何だ、しゃべるのか、幻覚のくせに・・」
『幻覚じゃな~い!』
「幻覚に決まってるだろ、じゃあ何なんだおまえ!」
『俺はカメラの精だ。りっしんべんの性じゃないぞ、米へんの、妖精の精の、カメラの精だ。』

こんなのが出てきちゃったよ。やっぱり飲めない酒は飲むモンじゃないな~。つくづくそう思い目をつぶったまま首をぐりぐり回した。
『オイ!ちゃんと聞け!おまえ何やけくそになってんだ、悔しくないのか?』
まだなんかしゃべってるよ。
『おまえも他の連中に負けない立派なカメラマンになりたくないのか?』
あ~自分の中のコンプレックスがこんな形に表れるんだな~。
「そいつ」はなんだかブツブツとしゃべり続けていたが無視をしてパジャマに着替え、歯を磨いてベッドに潜り込んだ。
後頭部がズキズキと痛んだ。

翌朝、目が覚めて時計を見ると11時だった。外は雨が降っているようだ。
まだ頭が痛い。
今日は一昨日撮影した写真の上がりを届けに行く約束をしている。
いつもはバイクで行くのだが、雨が降っていてはバイクでは無理だ。
電車で届けに行くならもう起きなくてはならない。
12月の寒さに負け、ベッドでグズグズしていると、

『約束を守るのは最低限度のルールだぞ。』
聞いたことのある声が聞こえた。
布団から顔を出してみると「そいつ」がまだテレビの前にいた。
なんだよ~!昨日の幻覚まだ消えないのか?
『だから、幻覚じゃないッ!カメラの精だ。
約束を守る。
挨拶をする。
これ社会人の、いや、人として最低守らなくてはならない常識だ。
早く起きて届けに行ってこいッ!』
僕は飛び起きてテレビの前に行ってみた。「そいつ」は慌ててテレビの裏に逃げ込んだ。幻覚にしては実体がハッキリ見える。
『だめ~触っちゃ。汚れるから~。』

なんだかやっかいなヤツに取り憑かれてしまったようだが、完全に酒が抜ければ消えるだろうと諦めて、顔を洗ってみた。
頭はまだズキズキ痛い。
「そいつ」はまだこっちをにらんでいる。

僕は現像済みポジを雨に濡れないように、2重の封筒に入れてカバンに入れた。
新宿で電車を乗り換え、池袋で地下鉄に乗り換え、出版社に向かった。
バイクだったら30分とかからない距離だが、電車を乗り継いで1時間ほどかかった。
午後1時の編集部は閑散としている。だいたい編集者が全て集まるのは夕方だ。
「午後一に届けます。」と言っても結局相手の編集者はまだ来ていなかった。
「あの変なヤツにせかされなければみんながいる夕方に届けに来たのに・・・」
と、独り言をブツブツ言いながら副編集長に「おはようございま〜す」と挨拶をし、「○○さんの写真の上がりここに置いておきま〜す。」と、まわりに聞こえるようにちょっと大きな声で言って帰ろうとしたとき、
副編集長に呼び止められた。「ちょうどいいや。1月にオーストラリアロケがあるんだけど10日間ほど予定もらえるかな?」

帰り道、書店によってオーストラリアのガイドブックを買って、足が地に着かないような感じで、鼻歌を歌いながらアパートに向かった。
すっかり昨日の酒も抜け、頭痛もとれていた。

アパートの鍵を開け自分の部屋に入ろうとしたとき、中から人の声がした。
恐る恐るドアを開けて見ると、テレビがついているようだ。
朝あわてて消し忘れたか、と安心して中に入ると「あいつ」が僕のソファーに座ってテレビを見ていた。
『どうだった?なんか良いことあった?』


「あいつ」はそれから1週間、うちに居候をして、その間
『お礼状書けよ!』とか、『靴はちゃんと磨け!』とか、
何だか躾係のように毎日毎日小言を言って僕に指図をした。

『最後にな〜、大事なことを言うからしっかり覚えておけ!
カメラは使うときは厳しく使い、使い終わったらやさしく手入れをしろよ!
そうすればず〜と使えるから。』
そう言って「あいつ」は段々透明度が増していって、消えてしまった。


年が明けて、オーストラリアロケの用意をした。
「ボディはこれとこれ、レンズは念のため予備も持って行こう。」
そんな独り言を言いながら、普段使わない機材を保管しているカメラバッグを開けてみると、
なつかしい『ニコンF』が出てきた。
高校時代のあこがれのカメラで、とっくに製造は終了している。
アシスタント時代に中古カメラ店で一目惚れをして衝動買いをした中古品だ。
最初のうちは嬉しくて毎日のように触っては磨き、空シャッターを切って楽しんでいた。
実際は、時代遅れのカメラで実用にはならない。
そのうち飽きてしまい、バッグの中に入れっぱなしになっていた。
何だかピンと来るものがあって、ロケとは関係ないが『ニコンF』を取り出した。
ひんやりと冷たく、ずしりと重たい感触が手に伝わってきた。
巻き上げてみたが、ゴリゴリと重たい。キャップを外しファインダーをのぞいてみると周辺にカビが生えている。
何年かほったらかしにしていたせいだ。
僕は『ニコンF』をテレビの前に置いた。

オーストラリアロケから帰ってきて、僕はすぐにニコンのサービスセンターに『ニコンF』を持って行った。
製造終了後何年も経っているが、部品交換をともなわない点検、整備は今でも可能だ。

1週間ほどして「あいつ」は帰ってきた。
今度はカメラバッグにしまわず、テレビの前にセーム皮を敷いて「あいつ」を置いた。

お互いにいつでも見える場所だ。
それからの僕は仕事がどんどん忙しくなっていったが、
1日1回は「あいつ」を磨き、そして話しかけるようになっていた。
「あいつ」がしゃべることは無かったが、気持ちは通じている、そんな気がした。

2011年12月6日火曜日

ライカその3 コンタックスG1きっかけでライカにのめり込む

M6 Leitz
ライカM6とミノルタCLE、コンパクトなボディ2台にMマウントロッコール28ミリと90ミリを付け、40ミリを予備に持ち歩く。
1985年に本物のライカを新品で購入してから、こんな軽装備でも仕事が出来る事を知った僕はしばらくの間ライカでレンジファインダー撮影を楽しんだ。しかし、中判撮影が増えるに連れ、ライカの仕事での出番は減っていった。

その後のライカはチタンメッキのM6をだしたり、特別なロゴマーク付きを限定生産したり、とても進化と思える変化がなく過ぎていた。

時は経ち、1994年京セラから画期的レンジファインダーカメラ「コンタックスG1」が発売になった。
チタン外装
オートフォーカス
実像式ズームファインダー
カールツァイスレンズ
ライカM6とほぼ同じ大きさで電動巻き上げ、巻き戻し
いっこうに進化しないライカM6に比べ画期的に進化した次世代レンジファインダーカメラとして多くのファンを獲得した。
中には『ファインダーの見えが悪い』『オートフォーカスの精度が悪い』などと批判的な意見もあったが「ライカとは別物のレンズ交換式AFレンジファインダーカメラ」として好評を博した。
値段は少々高いがライカと比べればベラボーに安い。
僕はすぐに飛びついてG1ボディと28ミリ、90ミリの2本を購入した。
その頃のカメラ雑誌では盛んにライカレンズとカールツァイスレンズを比較したり、ライカボディとG1ボディを比較したりの記事が花盛りだった。
前評判の高かったカールツァイスレンズは実際使ってみると適度のコントラストと硬すぎないシャープさで魅力にあふれたレンズだった。
実は、G1購入の資金に充てるためミノルタCLEと3本のレンズを手放した。
ライカはM6ボディ1台、レンズはなくなっていた。

「G1を仕事で使おう」と思ったが、何かが物足りない。
広角は28ミリで十分だが、望遠が90ミリまででは人物アップが撮れないので、もう少し長いレンズが欲しい。しかしコンタックスG1システムにこれ以上の望遠を望むことは不可能だ。
そこで思ったのが、広角28ミリはG1で、望遠はライカM6に135ミリを付けよう。
ライカのレンズはどれも高価だが、望遠系は余り人気がなく中古でとても安く手に入る。
それまでは仕事用カメラやレンズを中古で一度も購入したことがなかったが、ライカは別である。何しろ新品は高すぎる。

何軒か中古ライカレンズを扱う店を当たって、テレエルマー135ミリF2.8を65000円で購入した。
早速ライカM6に付けてみた。
広角28ミリに対応したM6に135ミリを付けると撮影範囲を示すカギカッコ 「  」が中央のほんの一部を示す。写る部分が拡大されるわけではないので、ハッキリ言って見やすいものではなかった。初のライカレンズも生かしようがないのか、と思ったとき「ライカM3はどうか?」と思いついてしまった。

1954年発売になったライカMシリーズの最初のカメラである「M3」は50ミリと、90ミリ、135ミリに対応したどちらかというと望遠よりのファインダーである。
後に発売になった「M2」は35ミリレンズ対応の広角系ファインダーである。当時のライカ使いは50ミリ以上はM3で、35ミリはM2で、と使い分けていたと聞いた。
ならば、135ミリ用に「M3」はどうか?
このとき既にいわゆるライカウイルスに感染していたようで「135ミリ以上は一眼レフの方が使いやすいよ」と言う自分の中の正しい考えがウイルスによって打ち消されていたようである。

そして熱におかされ正常な判断が出来なくなった僕は「コンタックスG1」そっちのけに、ついに「ライカM3」を購入してしまった。
値段は10万円をちょっと越えた程度の、M3の中では『格安』のものを選んだ。
一眼レフが「カシャーンッ」だとすると、
ミノルタCLEは「カシャ」で、
ライカM6は「コト」っとシャッターが切れる。
と以前書いたと思うが、M3はもっと静かで「・・」
それはオーバーだが、以前から「Mシリーズの最高傑作はM3」と聞いていた意味がわかってしまった。
それから、
M2
M3と同じ感触で35ミリ用広角ファインダー付「M2」を購入。
M3はフィルム装填がM6よりさらに難しくなっているが、M2に「クイックローディングスプール」を付けるとM6と同じようにフィルム装填が出来る。
ならばM4の方がM6に近いだろうと「M4-2」も購入。
「露出計が入っていないからライカは使えない」と思っていたなら露出計内蔵「M5」を買わなくては、と・・「M5」も。
同時期に発売されていた「CL」も買わなくてはと、
気付いてみると、

M3ダブルストローク
M3シングルストローク
M2クイックローディングスプール付
M4-2
M5 2吊り
M5 3吊りブラック
CL
M6[Leitz]
M6[Leica]
CL

細かな説明はしませんが、おかしいことだけ解って下さい。
これらのカメラ何に使います?
仕事?
あ〜〜もう完全にライカ熱・・・

コンタックスG1きっかけに完全にライカウイルスに冒されてしまった僕は
もちろん、ボディだけでは収まらず、
レンズも全部買う暴挙に至る。


以下次号

2011年11月19日土曜日

ライカその2 「M6」でライカにはまる

ライカM6
海外でのスナップ撮影でレンジファインダーカメラの魅力を知った僕は、それから「ミノルタCLE」を仕事で使い始めた。
ところで、本家のライカは当時どうだったのだろう。

当時のライカは日本製一眼レフカメラに完全に市場を奪われ惨憺たる状況にあった。レンジファインダーカメラは「ライカM4-P」というM4のファインダーに28ミリを加えたカメラが製造コストの安い「CANADA」で作られていた。順番としては
M3に始まり、広角ファインダーを組み込んだ
M2が続き、M3とM2を足して使いやすさを向上した
M4があり、大きさはそれまでのMシリーズより大幅に大きくなってしまったが「露出計が内蔵された」
M5があり、さらにミノルタの協力でコンパクトに仕上げた
CLが続き、しかし安価で高性能の日本製一眼レフに市場を奪われ、人気は回復できずライツ社は売却され、露出計を省き製造コストを下げた
M4-2が販売され、カナダ工場で
M4-Pが製造されるといった状況だった。

本格的に仕事で使うにはボディが2台必要だ。1台メイン、1台予備。あるいは広角と望遠用に各1台、という使い方をするからだ。
しかし露出計の内蔵されていない「ライカM4-P」を買う気にはなれず、欲しいレンジファインダーカメラは見あたらなかった。
レンジファインダーカメラは一眼レフほど目立たないので、仕事以外でのスナップ撮影をするのに向いている。スナップ撮影の場合相手に気付かれないよう、風のように撮影するのが極意だ。
露出計の入っていないM4-Pでは厳密な露出が求められるカラーポジは撮影できない。

MADE IN GERMANY
そんなライカ社の巻き返しが1984年に発売になった「ライカM6」だった。
M4-Pと大きさは変わらず、露出計を内蔵した。M5が露出計が内蔵された最初のM型ライカだが、露出計のせいで大きさが大きくなってしまい『弁当箱』と揶揄され不評をかった。製造もドイツに戻したM6の前評判は好評で、ライカファンにすぐに受け入れられた。
日本での販売価格397、000円
品薄で、発売された1984年に僕は実物を見ることはできなかった。

翌1985年、オランダでの撮影の依頼を受けた。オランダ政府観光局とKLMとのタイアップで雑誌8ページでのオランダの観光ガイドだった。
一週間の予定で現地滞在5日間
最初の2日間はアムステルダム市内で運河や広場、ゴッホ美術館やアンネフランクの家などを撮影した。メインカメラはニコンF3だが、この時もミノルタCLE に28ミリをつけて常時携行していた。アンネフランクの家は「狭い隠れ家に2年間も暮らした」と聞いていたので超広角の20ミリを用意して撮影に臨んだが、意外と広い。家の実家より広い。悲しくも日本人がいかに狭いウサギ小屋に住んでいるかを実感した。3日目は風車で有名なザーンセスカンス、4日目はデルフト焼きのデルフトに足を伸ばした。ここまでは観光局のガイドの案内があったが、最終日は予備日でフリーになった。編集者と二人でアムステルダム市内をぶらぶら歩きながらスナップをしていると大きなカメラ店があり、のぞいてみるとそこに「ライカM6」があった。
店をいったん出て近くのカフェで休憩しながら悩んだあげく、編集者をカフェに残したまま急いでカメラ店に戻り
ライカM6を買ってしまった。
確か免税で300、000円くらいだったと記憶している。
 そしてこの時の撮影料は8ページで200、000円だったと思う。
急いで編集者を待たせているカフェに戻り、CLEに付けていた28ミリ をM6に付けてライカ初ショットをアムステルダムで撮影した。

この構造がフィルム交換を難しくしている。
ホテルの部屋に帰ってじっくりライカを観察した。
先ずフィルムの装填が難しい。歩きながら、立ったままではとてもフィルム交換は出来ない。少し慣れてからもフィルム交換をなんどか失敗した。
シャッター音は秀逸だ。
ミノルタCLEのシャッター音が小さいと思っていたが、さらに小さい。
ニコンの一眼レフが「カシャーンッ」だとすると、
ミノルタCLEは「カシャ」で、ずいぶん小さいと思っていた。ところが本家の
ライカM6は「コト」っとシャッターが切れる。
これが本当のライカなのかとその夜はフィルムを詰めずにシャッターばかり切っていた。
1/30以下になると小さく「シャンシャン」と内部でスローガバナーの音が聞こえるのもたまらなくいい音だ。
フィルムを詰めずにシャッターを切る。ライカ好きにとってたまらない時間である。
ファインダーはでかい。
ファインダーの善し悪しは金額で決まってくるらしい。内部にプリズムやガラスが詰まっていると画像が大きく見やすいファインダーが出来るが、金額的には高くなる。
この高価でガラスが詰まったファインダーがライカの売りである。
ライカはレンズを交換すると自動的にファインダーフレームが切り替わる。50ミリを付けると50ミリのフレーム。28ミリを付けると28ミリにフレームが「 」こんな形で現れる。
しかし、ミノルタCLE用の28ミリを付けても、35ミリのフレームが現れる。
Mマウントは共通だがこの辺が完全互換ではないところである。

さて日本に帰ってから、僕はライカ、ミノルタセットでモノクロインタビューのほとんどの仕事をするようになった。
レンズはミノルタの28、40,90ミリの3本のみ。
念のためニコン一式を用意してはいたが、ほとんどが車に積みっぱなしで出番がなかった。

そしてしばらくして、仕事がファッション撮影や表紙撮影にシフトして徐々にライカの出番が減っていった。

その後何年かして、あることがきっかけになり僕のライカ熱がぶり返す。
そしてついに、『ライカを全部揃える』 暴挙にいたるくだりは、
次回以降に・・・。

2011年11月6日日曜日

ライカその1 僕の「ライカ夜明け前」

カメラブログをここまで書いてきて、まだ「ライカ」が出てきていない。これは大変、片手落ち。
そんなわけで、今回はライカの話。

前にも書いたが、僕がカメラマンになった30年ほど前は広告系カメラはハッセルブラッド、報道系カメラはライカというのがまかり通っていた時代。
僕もカメラマンになってすぐハッセルブラッドを手に入れたのは以前に書いた通り。
「ハッセルは仕事で使うけど、ライカは仕事では使えない。」と、ライカには全く興味がなかった。

カメラマンになって1年ほど過ぎて、安定的に仕事が入ってくるようになって経済的に余裕が出てきた頃、ちょっと気になるカメラがあった。
「ミノルタCLE」
ミノルタはライカと提携していて、それ以前に「ライツ ミノルタCL」という小型カメラをだしている。レンズ交換可能のレンジファインダーカメラで、マウントはライカMマウント。
しかしこのカメラは40ミリと90ミリが供給されていてそれ以外のレンズは基本的に使えない(本当は50ミリなどがつかえる)。
新たに発売になった「ミノルタCLE」は28ミリ、40ミリ、90ミリが供給されていて何れもライカMマウント。値段はレンズ3本とボディをセットにしても20万円ほどで、ライカのレンズ1本の値段でCLEがシステムで揃う。
今で言う「がんばった自分へのご褒美」として、一式購入したのが僕のライカの始まり。

もちろん「ミノルタCLE」はライカではない。
しかしレンジファインダーはライカ仕込みのとても明るく見やすい物で、一式揃えても普通のバッグに収まるコンパクトさが気に入った。
当時は普通のコンパクトカメラでもCLEと同じくらいの大きさがあった。コンパクトな上にレンズ交換式、まずはスナップ撮影で試し撮り。
しかし、使ってみるとちょっと違和感を感じた。
高校生になって初めて使ったカメラがペンタックスSP、以来ニコンF2、ニコンFE等一眼レフしか使ったことがない。一眼レフは撮影する状態がファインダーで見える。ピントがぼけていればファインダーでもボケて見える。レンジファインダーは中央の二重像のズレでピントを合わせる。中央部をうっかり見逃すとピンぼけでシャッターを切ってしまうことがある。これに慣れるのにしばらくかかった。
別の例えでレンジファインダーを説明すると、雑誌を丸めて筒状にして遠くを見る。まわりが見えないで筒の中だけが見えるので、見ている物に集中できる。これが一眼レフ。
親指と人差し指で L を作って両手で四角を作って画角を確かめる 「 」 これがレンジファインダー。全体が見えていて写る場所がカギカッコで囲まれる。まわりの状況も見えるからスナップ撮影に向いている。
さらに一眼レフとの違いは音の小ささ。一眼レフはミラーが上がって、シャッターが切れて、ミラーが降りる。一連の音が「カシャーンッ」と響く。レンジファインダーカメラはミラーがないので「カチャッ」と小さい。これもスナップ撮影に向いている。
なんどかテスト撮影をしてフレームの曖昧さや、露出の加減などを把握した頃「がんばった自分へのご褒美」で [Paris] に一週間一人旅に出かけた。
荷物はなるべく減らしたい。写真は精力的に撮りたい。ぴったり合うのが「ミノルタCLE」。

ロッコール90ミリF4
初めて行くパリのメインの目的は アンリ・カルティエ=ブレッソン のような「決定的瞬間」の写真を撮ること。メトロに乗りビュスに乗り5日間パリ周辺をスナップして廻った。

もう一つの目的はフランス製三脚「ジッツォ」を安く買うことだった。パリの比較的中心部にあるフォーラム・デ・アールにある「Fnac」という日本のYドバシカメラのような店に行ってみたが、日本のようにサンプルがおいてない。カウンターで頼むと店の奥から商品をだしてくるシステムのようだ。カウンターで「ジッツォ シルブプレ」と言ってみた。通じない。
「トライポッド」と英語で言ってみた。通じない。
フランス語で三脚のことを何というのかわからない。指三本を下に向けて「スリーレッグ」と言ってみた。
するとジッツォの写真付きカタログをだしてくれた。やっとカタログを指で指し、目当てのジッツォを買うことが出来た。たぶん日本で5万円位の物が3万円程で買えたと思う。ただし、帰りが大荷物になってしまった。

5日間で36枚撮りのポジフィルム30本ほどを撮影し、すっかりCLEは身体の一部になり、風のようにスナップが撮れるようになっていた。

しかしビックリしたのはそれからだ。
帰国して全てを現像して上がりをルーペでのぞいてみてビックリした。
写真に立体感がある。
ロッコール28ミリF2.8
一眼レフの28ミリでは見たこともない立体感が出ていて「これがレンジファインダーカメラなのか」と納得した。
レンジファインダーカメラと、一眼レフカメラではボディの構造だけでなくレンズに大きな違いがある。特に広角レンズに関しては全くレンズ構成が異なる。
たとえば、焦点距離28ミリとはレンズ構成の中心部からフィルムまでの距離のことである。これが小さくなると写る範囲が広くなる。28ミリとなるとレンズがボディ内部にめり込んだ形になる。レンジファインダーカメラなら何の問題もない。ところが一眼レフになるとボディ内部にはミラーがあるためレンズを内部にめり込ませることが出来ない。そこで、広角レンズではない標準レンズの前に強い凹レンズを置いて内部にめり込まない広角レンズを構成している。これをレトロフォーカスといったり、逆望遠型といったりする。
僕は常に逆望遠型広角レンズで撮影していて、本当の広角レンズを知らなかったのだ。

それから、僕は仕事でも積極的にCLEを使うようになった。特にモノクロ インタビュー物での出番が多くなった。インタビュー中を90ミリで、決めカットで40ミリと28ミリを使う。
暗室で8×10にプリントしていると写真の立体感に満足でき、プリント作業が楽しくなった。

そして、「これがライカの良さ」と思って満足していた僕は、後に本物のライカを手に入れてさらに驚きの世界に引き込まれて行くことになる。

2011年10月23日日曜日

ニッコール85ミリと180ミリの 曖昧な記憶


ケイ?
けい子?
記憶がはっきりしない。
僕はケイちゃんと彼女のことを呼んでいた。
僕はリクと呼ばれていた。

ケイちゃんと知り合ったのは僕が25歳の時だ。
僕はこの頃はカメラマンのアシスタントをしていて、フリーランスのカメラマンなるため、時間があれば作品を撮影していた。
ファッションカメラマンのアシスタントをしていた僕の作品の被写体は女の子で、師匠の真似をしてファッション写真風の作品を撮っていた。


モデル代が払えないから頼むのは素人の女の子ばかり。撮影するとモデル代の代わりに写真を大きくプリントしてあげて、その時、次にモデルになってくれる人を紹介してもらっていた。
今から思えば、プロのモデルじゃない素人を大勢撮影したことは後にカメラマンになってから大いに役に立ったと思う。
そして誰かに紹介してもらったのがケイちゃんだった。

ケイちゃんは六本木にある劇団の研究生だった。
小柄で丸顔のケイちゃんはちょっと美人で、キュートで、元気で魅力的な女の子だった。
初めて撮影したのは僕が働いていたカメラマンのスタジオで、夜2時間、作品撮りのために借りて撮影した。
写真撮影には2種類あって、英語で言うと 「Photo shooting」 と 「Photo session」 だ。
人物撮影の場合、フォトシューティングはモデルを自由に動かしておき、カメラマンは良い瞬間を狙い撃ちする。フォトセッションはモデルとカメラマンのコラボレーション撮影になる。モデルと初対面だとお互いにどんな人で、何ができるのか、どうしたいのか解らないから探り合いながら、様子を見ながら撮影する。初めての撮影でも意気投合すれば相乗効果ですばらしい結果が生まれるが、うまくタイミングが合わないこともある。
その日の撮影は、時にクールに、時にキュートに、変幻自在のケイちゃんは被写体としては満点だった。
原宿駅前のビルの4階にあるスタジオで夜9時に撮影が終わり、2階にあるレストランで僕らは食事をした。
撮影終わりのケイちゃんは饒舌で、自分の夢をめいっぱい語ってくれた。
当時は無口だった僕は、オムライスを食べながらケイちゃんの話を一生懸命聞いていた。
「リクさん。」
「ん~。」オムライスを食べている僕は鼻で返事をした。
「今日すごく楽しかった。演技の勉強をしているじゃない? でも、なかなか主役になることは出来ないのよ。わかる? 聞いてる? 」
「聞いてるよ。」
「でも、今日、私、主役だった。すごく嬉しかった。『私女優よ。私を見て。私を撮って。』 って、そんな感じ?  ね~ わかる? 」
「んー わかるよ。でもまだ結果を見てないだろ? できあがりの写真。」
「ううん、絶対いい。見なくてもわかる。」
「1週間くらいでベタ取るから、それ見て写真選んで。気に入った写真プリントしてあげるから。 」
ケイちゃんは聞いていない。
「また撮って。次はロケ。 そうだ。 毎月1回撮影しよう。 絶対いい。 ね? 」
半ば押し切られたようだが、実は僕もケイちゃんをモデルとして、いや女優として評価していた。
素人のかわいい子とはちょっと違う、演じることが出来る秘めたる資質を感じていた。

そんな始まりから僕はケイちゃんをモデルに毎月写真を撮った。
2回目の撮影は代々木公園でロケをした。
3回目は新宿御苑で・・・

そんな感じでほぼ月1でフォトセッションをしながら僕らはカメラマンとして、女優として少しずつ成長していったような気がする。
恋愛感情はまったくなかった・・・

実は、2回目の撮影を代々木公園でした後、原宿駅前でご飯を食べながらケイちゃんが言った、
「私彼氏がいるの。」
僕はなんにも聞いていない。
「サラリーマンの彼氏で10歳年上なの。」
「あ、そ~。」 って感じだ。
3歳年下のケイちゃんは、確かにかわいいが、おテンバな妹みたいな感じで、恋愛対象とは考えていない。
聞いてもいないのに、なんでそんなこと言うかな~と思った。

そんなケイちゃんとの出会いからおよそ1年後、僕は26歳でアシスタントをやめ、フリーランスのカメラマンになった。
ケイちゃんは研究生を終了し、10人に1人しか残れない団員に選ばれ、正式に劇団員になっていた。
月1ではないが、時々下北沢であってご飯を食べながら愚痴を聞いてあげた。
劇団員になっても給料は出ない、劇団公演は年に数回しかない。普段はアルバイトをしながら、テレビや映画、舞台のオーディションを受けて、合格するとバイトを休んで女優をする。
僕はカメラマンになって、実家を離れ下北沢のアパートで一人暮らしをしていた。
雑誌の撮影を一回すると5~6万円にはなり、ひと月に5~6回は撮影があったが、不安定で、1週間なんの仕事もないと、このまま忘れられてしまうんじゃないかと、不安な日々を送っていた。

夜11時くらいに電話が鳴った。
ケイちゃんだった。
「悔しい! オーディションおっこった。」
「仕方ないよ。ケイちゃんが悪い訳じゃないだろ、きっと役に合わなかっただけじゃないか? 」
そんなことを言いつつも、ケイちゃんの気持ちはすごくよくわかる。
僕だって、作品を持って売り込みにいっても必ずしも使ってもらえるとは限らない。
「僕の方がいい写真が撮れるのに、何故『今いるカメラマンで十分』なんて、お座なりな考え方をするんだ」と悔しい思いをしょっちゅうしている。
「電話じゃ気持ちが通じないから、今から行ってもいい?」
「いいけど、帰りの電車なくなっちゃうだろ?」
「いい! 朝までとことん喋る。 タクシーで行く! 下北のどこに行ったらいい? 」
「じゃあ、本多劇場の側の駅前に11時半に待ってるよ。」

駅前のマックはもう閉店していた。
半を少し過ぎた頃、タクシーが止まりケイちゃんが降りてきた。
「どうする? どっか入る? 」
「リクの家は? 」
「家? すぐそこのアパートだけど、『Jazzまさこ』の先・・・ え? 家くる? 」
「いい? だって話したいこといっぱいあるんだもん。」
「わかった。じゃあいいよ。」
「ごめんね、こんな遅くに。」
「いや、別にいいよ。明日撮影ないし。」
「だって、こんな時間に電話できて、私の気持ちわかってもらえるのリクしかいないんだもん。」
「彼氏は? 」
「だめ、サラリーマンだもん、全然わかってもらえない、とっくに寝てるし。」

自動販売機で缶コーヒーをふたつ買って、僕の部屋に向かった。
ケイちゃんは週に2回劇団に行って稽古をしたり、事務処理の手伝いをしながら、様々なオーディション情報でオーディションを受けている。今回も最終面接までいって、落ちてしまったそうだ。
「私何やっているんだろ?
毎日生活のために居酒屋でバイトして、オーディション受けてもみんな落っこちて、
これじゃただの居酒屋の店員じゃん? 」
慰めの言葉もなかった。聞いてあげることで少しでも楽になるならと、なるべく反論せずに相づちを打ちながら聞いてあげた。
「また写真撮って!
じゃないと私、女優終わっちゃう!」

午前2時くらいまで話を聞いて、ケイちゃんはそのまま僕のアパートに泊まった。
「リク、変な事しないでね? 私、彼氏いるから。それよか、リクとはわかり合える親友でいたいの。変な関係になりたくないのよ。」
「わかってるよ。なんにもしないよ。」

ケイちゃんは僕のベッドで、僕は床で寝た。

翌朝は変な感じだった。
男女だけど恋愛関係でもない、
朝は喋ることもなく、2人とも言葉少なく、
駅前のマックで朝食を食べた。

その週の、ケイちゃんがバイトが休みの日に僕らは軽井沢に撮影に行った。
撮影場所はアシスタント時代にロケで行ったことがある雲場池を選んだ。
僕は買ったばかりの「ニコンF3」に、これもほとんど初めて使う「AiニッコールED180ミリF2.8s」を使った。
ファッションの撮影で、うしろをボカして使うには最適のレンズだ。思うようなファッション撮影の依頼がなく初めて本格的に使った。
ケイちゃんはこの日のために白いドレスを買って持ってきていた。車の中で着替え、ケイちゃんは雲場池にドレスの裾を持って足を浸けた。秋とはいえ水はかなり冷たかったはずだ。
僕はニコンF3を三脚に据え、アングルを探した。
今回はフォトセッションではなくフォトシューティングで撮る。
ケイちゃんにはロングで周りの木や緑や池を生かした撮り方をするので、自分で演じて自分で動くように指示した。
足を水に浸けたり、踊るように廻ったり、にらむような表情を見せたり、一人芝居を演じていた。
180ミリを開放で使い、彼女だけにピントを合わせ、辺りをボカして撮影した。
次に、浅間山の麓の鬼押しハイウェイに移動して、長いショールを風になびかせるようにして180ミリで撮影した。

それからしばらくして、
ケイちゃんはオーディションに受かり初め、テレビに台詞付のチョイ役で出演したり、舞台に上がったりと、女優の活動を始めた。
僕も徐々に念願のファッション撮影の依頼が来るようになっていった。

知り合って3年目になった頃、また夜遅くにケイちゃんから電話があった。
タクシーで僕のアパートに来ると、映画出演が決まったことや、来年ロングランの舞台が決まりそうな話を楽しそうに話して、僕の部屋に泊まった。
僕らは床に布団を敷き、電気を消し、隣同士で喋りながら眠りについた。
「いつの日か、僕がカメラマンで、女優のケイちゃんを雑誌の仕事で撮影できたらいいね・・・」
そんな話を目をつぶったまま話していると、

「リク、私のヌード撮って。」
「やだよ!」
「なに! 即答? 」
「だってやだよ! ケイちゃんのヌードなんか・・ やだよ!」
「だめ! 撮らなきゃ! リクには私を撮る責任があるの!」

なんだかよくわからない理屈だが、押し切られて撮影する・・させられる羽目になった。
「スタジオで、うしろから強い光に照らされて裸の私が立っているの・・・」
そんな撮影プランを聞かされながら僕は眠りに落ちていった。

半分眠った状態で意識が遠のいてゆく中、ケイの左手が僕の布団の中にゆっくりと入ってきて僕の右手をつかんだ。
ケイは僕の右手を上からつかむと、そのまま自分の布団の中まで引っ張ってゆき、僕の手を自分の左胸の上においた。
僕はケイの胸のふくらみを感じながら眠りに落ちていった。
「ごめんね・・」
そんなケイの声が遠くで聞こえた。

僕は後輩に頼んで、以前働いていたスタジオを2時間貸してもらう手配をした。
ケイちゃんはダイエットをして撮影に臨んだようだ。
僕の撮影プランは、スタジオ撮影だがストロボを使わず、アベイラブルで撮影しようと考えた。
照明は500wのアイランプ1灯、壁にバウンス。
この日のために「Aiニッコール85ミリF1.4s」を購入した。
それまではニッコール85ミリF2を使っていたが、F1.4がちょうど発売されたので、この機会に購入した。
周りをバウンス用の白いパネルで囲んでニコンF3にトライX。
1/30でF1.4
現像はD76を希釈してフラットに仕上げた。

ケイちゃんに電話をした。
 「こないだの写真、ヌードの、出来たよ。10枚ほど8×10にプリントした。」
「いらない。」
「え! なんで。写真だよ。」
「いらない。
撮って欲しかっただけなの。
写真はいらない。
25歳の私を記録しておきたかったの。
 私はここにいますって・・・」
 「だったらいいけど・・・見る。」
「いい。持ってて、リクが持ってて。」

僕は女心がわかったような、わからないような・・・
とりあえず、印画紙の箱に収めて保管した。

それから何ヶ月か経って、
ケイちゃんから電話があった。
「今、稽古中なんだけど、来月からロングランの芝居が始まるの。東京で2週間、その後、名古屋、大阪、九州まで行って、その後北陸、東北、北海道まで6ヶ月間。」
電話の向こうでケイちゃんの嬉しそうな声が踊っていた。
「後、映画が公開になるから見て。シーンは短いけど健さんと競演なんで・・」

その電話がケイちゃんとしゃべった最後になった・・・・・・



里美から電話があった。

「知ってる?」

里美はケイちゃんと同期の劇団員だ。

「ケイちゃんが乗った劇団のバスが・・」

里美にもモデルを頼んだことがある。

「新潟の十日町で・・」

僕は里美からの電話を切った後、朝刊を改めて開いてみた。
「新潟県十日町市の県道で東京の劇団○○○のバスがガードレールを突き破って転落し・・・
乗っていた劇団員○○けい子さん(26)が全身を強く打って死亡・・・

それから何日か経った。
里美から電話があった。
ケイちゃんの両親が北海道から出てきていて、今、ケイちゃんのアパートの片付けをしている。
東京での話を聞きたいらしい、リクさん来てもらえないだろうか?
そんな内容だった。

僕は、ケイちゃんの写真、唯一手元にあるケイちゃんの写真を持ってVF400で下高井戸に向かった。
ケイちゃんのアパートには初めて行った。
里美とケイちゃんのご両親がいて、荷物を片付けていた。
僕はケイちゃんとの出会いやこれまでのつき合いを話し、8×10が入った箱を渡した。
「ケイちゃんの大切な写真が入っています。ケイちゃんは 『私は今ここにいます』 って言う写真が撮りたかったって言ってました。」
「今、けい子の日記がありましてね。読むと芝居の事の間に、リクさんの話がたくさん出てくるんですよ。それで里美さんにお願いして、連絡していただいたんです。」
「でも・・」
僕は里美の方を見ながら、
「ケイちゃん、彼氏いましたよね? 」
「さ〜そうですか?日記には出てきませんけど。」
「え? 里美ちゃんは聞いてるでしょ? 」
「私は知りません。」

あれからもう30年近く経った。
あの頃のネガを最近になって探してみたが、見あたらない。
ケイちゃんの顔もよく思い出せない。
今となってみると、
ケイちゃんに彼氏はいたんだろうか?
いや、それどころか、
ケイちゃんは本当にいたんだろうか?

僕にはよくわからない・・・
僕は本当に写真を撮ったのだろうか?


※この話はフィクションです。
登場人物は実在しません。

2011年10月14日金曜日

クールピクス 失踪事件 その2

※その1からお読み下さい。


2年程前のことだ。三波さんが東京に出てきて、例によって心霊写真を見せられたとき、
「何処で撮ったんですか?この写真?」との問に、「いや〜いろんな所で撮っているんでどこだかよく覚えていないんです。写真に自動的に撮った場所が記録されるといいんですけどね〜」
「何言ってるんですかありますよ。今どきはカメラにGPSが内蔵されていて自動的に『ジオタグ』って言う位置情報が記録されるんですよ」

その時勧めたのがニコン クールピクス P6000 だった。
P6000はカメラ内部にGPS機能を内蔵していてメタデータに緯度、経度などの位置情報が記録される。
ニコンのブラウザーソフト ViewNX を使うと写真からの情報を元に地図を表示できる。

三波さんはP6000を使っているに違いない。
僕は急いで三波さんのメールの添付書類を保存し、ViewNX2を立ち上げた。
おそらく三波さんも「白いモヤ」が写った写真をViewNX2で見ていたはずだ。だとすると、GPS情報から正確に位置を把握できている。
同じ場所に「白いモヤ」の正体を確認しに行ったに違いない。そして、何らかのトラブルに遭ったのじゃないだろうか。
だとしたら急がないと、本当に大変なことになってしまう。そんな気がして妙に胸騒ぎがした。
ViewNX2が起動するほんの数秒もとても長く感じた。
急いでフォルダーから三波さんの写真を表示して、右側のメタデータをクリックした。
サムネイルの下にGPS情報付を示す地球をかたどったアイコンがついている。
「モデル名:Nikon COOLPIX P6000」ずーっと下にスクロールしていくと緯度、経度が表示されていた。
左上の「GPSマップ」アイコンをクリックすると写真に変わって地図が表示された。

「奥 さんっ!あ、ありました写真。あ、三波さんが僕に送ってくれた写真です。写真に地図が、地図情報が付いていて、何処で撮ったかわかりました。きっと、三波 さんはこの写真の『白いモヤ』をもう一度撮りに行ったに間違いないでしょう。そして何かトラブルに遭って、もしかしたら迷子とか、そんな状況で、きっと、 困っているに違いありません。」
僕は自分に言い聞かせるように早口でまくし立てた。

地図をプリントアウトし、自分のP6000を持って僕は車を走らせた。
僕の無神経な発言が三波さんを傷つけていた。自分が興味を持っていることをハナから馬鹿にするように否定されたら誰だって悔しいに違いない。
そのせいで三波さんが事件や事故に巻き込まれたとしたら・・・。
僕は自分のこれまでの発言を反省し、自分を責めた。
「三波さん、今行くから、きっと無事でいてくれッ!」

新宿から首都高速に乗り、中央高速を走り八王子JCTを過ぎた頃、携帯電話が鳴った。
車のハンドルに付いた受話ボタンを押して電話に出た。
「もしもし」
「しゅ、主人が見つかりました。」
「三波さん?三波さん見つかったんですか?何処ですか場所は?本人から電話があったんですか?無事なんですか?生きてますよネ?・・・・・・・・・・・・・・・・・」


翌朝、僕は富士吉田市にある市立病院前のビジネスホテルを夜明けと共にチェックアウトして、昨夜三波さんが無事発見された樹海の風穴に向かった。
昨夜、情けなさそうに謝る三波さんから聞き出した話によると・・・・

その日夕方5時頃、早めに仕事を切り上げた三波さんは「白いモヤ」が写った場所を目指して車を走らせた。
諏訪市の自宅から写真の場所まで2時間程、迷うことなくたどり着けば明るい内に着けるはずだった。
風穴の駐車場に着いたときは日没少し前だった。
念のため車に積んであった懐中電灯をバッグに放り込んで遊歩道を足早に進んだ。
遊歩道から少し離れた、前回写真を撮った場所を探している内に薄暗くなって来た。急ぎ足で歩き回っているうちに苔を踏んで足を滑らしてしまった。
運悪く滑り落ちたところが2メートルくらいの深さがある窪地で、滑り落ちる途中に木の根に足を引っ掛けてくじいてしまった。
窪地の底で足の痛みで身もだえていたが、我に返り脱出を試みた。
右足の痛みがひどくとても斜面を登れそうもない。さらに運が悪いことに、尻のポケットに入れておいた携帯電話が130キロの体重で押し潰されて使い物にならなくなっていた。
大きな声でなんどか叫んでみたが、暗くなってしまった樹海に人の気配は感じられなかった。
ここで三波さんはほとんど脱出を諦めたそうだ。
幸い窪地の底は落ち葉が敷き詰められた状態でそれほど寒さを感じない。
落ちたときにすっ飛んでしまったバッグを手探りで探し、懐中電灯を頼りにバッグの中をあらためると、車の中で食べるつもりだったおにぎりが2個と500mlのペットボトルが入っていた。
おにぎり1個とペットボトルのお茶を一口飲んで、落ち葉の中に身体を潜り込ませ身体を休ませた。
しばらく眠り込んだようだが、辺りが少し明るくなってきた頃、足の痛みで目が覚めた。
動こうとしたとたん、足が激しく痛んだ。違和感を感じる右足首を触ってみると拳大くらいに腫れ上がっていた。
自分で窪地を上がれないことを考え、持ち物をチェックした。
壊れた携帯、バッグの中にはおにぎりが後1個、500ml弱のお茶、入れっぱなしになっていたカロリーメイト1箱、ニコンクールピクスP6000、予備のバッテリー、手帳、財布、ボールペン、名刺、リップクリーム、メガネ、近視用だから光を集めて火を熾すことは出来ない。
人を呼んだり、誰かと連絡をすることが出来そうな物はなかった。
手帳にここまでの経緯を書き留めることにした。「ここに遺書を書くことだけは絶対ないように」と思ったそうだ。
人の気配がしたら大声を出そう。そう決めていたが残念ながら風の音しか聞こえない。

風穴の案内所のスタッフが朝一番に駐車場に車が止まっているのを確認していた。
夕方帰る時間になっても同じ場所に車が止まったままで不審に思った。
念のため帰る間際に警察に連絡をして、昨夜から止めっぱなしになっているらしい車があることを連絡した。
警察がパトロール途中によって、ナンバーを照会し所有者宛に連絡して三波さんの奥さんが対応、捜索を頼んだ。
僕はその時すでに中央高速を走っていた。
警察と地元の方が懐中電灯を振り、声を上げながら遊歩道の奥まで捜索開始。
三波さんはその声を聞き、大声を上げると共にP6000のフラッシュを暗闇に向けてたいて知らせたそうだ。
およそ24時間ぶりに発見され病院に運び込まれた。
警察からは遊歩道からそれた樹海は「林道から外れての入林は自然公園法・文化財保護法違反となり禁止されている。」と厳しく指導されたようだ。

僕が昨夜病院にたどり着いたとき三波さんは元気そうだった。
しきりに謝っていたが、僕は無事だったことが嬉しくて泣き笑い状態で三波さんをバシバシ叩いてしまった。
それから奥さんがタクシーで駆けつけるまでの1時間程の間に一部始終を聞いた。

病院の前にあるビジネスホテルから風穴までは車で20分程だった。
途中にいくつもの風穴、氷穴の案内表示があった。さらに温泉もある。
三波さんが「白いモヤ」を撮影した風穴周辺を1時間程歩きながらP6000であちこちを撮影してみた。
三波さんには申し訳ないが、僕のカメラには不審なものは写っていなかった。
考えられる事は、
樹海は溶岩流の上に出来た針葉樹林でその下には溶岩が冷えて固まる際に出来る溶岩洞が数多く空いている。
その大きな物が氷穴や風穴として観光地化されている。
近くに温泉もあるのでその蒸気が溶岩洞を通り数キロ離れた場所に吹き出してもおかしくない。
また氷穴と呼ばれる溶岩洞の内部は非常に低温でその付近に湿った空気が流れると冷やされて水分が氷結し霧状に見えることもある。
おそらく三波さんが写真を撮影した背後にそのような蒸気か霧が立ち上りそれが薄暗い樹海の中で光を受けて浮かび上がったのではないだろうか。
その現象を写真に撮って三波さんに見せてあげたかったのだが・・・。

僕は風穴を後にして三波さんが入院している病院に戻った。
東京にやりかけの仕事を残してきたため、三波さんに挨拶をして戻るつもりだ。
病室をのぞくと朝食が終わった後だった。
僕は考えられる「白いモヤ」の正体を三波さんに話した。
「残念ながら写真は撮れなかったけど、たぶんそういうことだと思うよ。」
「そうですか、なるほど」
「まっ、気を落とさず、まずは早く元気になって下さいよ。」
「そうですね。ところでですね、昨日話さなかったんですけど、樹海の中で丸1日横になっていて、結構いっぱい写真を撮ったんですよ。何しろ樹海ですから、いろんな物がウヨウヨいるわけです。きっと写真に写っていると思うんですよね・・・・・」

僕は最後まで聞かずに後ろ手で手を振りながら病室を出てきた。
「だめだ!全然懲りてないッ。」


おわり


この話はフィクションです。
登場人物は実在しません。

2011年10月7日金曜日

クールピクス 失踪事件  その1

「火の玉が自由自在に出せるようになった。」こんなメールをもらって僕は仕方なく三波さんに会いに行った。また例によって三波さんの「心霊写真」に付き合わなくてはならないとちょっとウンザリしたが、「今新宿にいるけど会えませんか?」と続き、仕方なく出かけることにした。ただ指定された喫茶店がなつかしいジャズ喫茶だったのでちょっとは楽しみでもあった。

三波さんと初めてあったとき、彼の体重は180kgあった。音楽雑誌の「180キロの歌手デビュー!」という取材で、僕が撮影を担当したのだ。取材は青山にある音楽スタジオで行われた。そのスタジオの隣に墓地があり、その下をトンネルが通っている。初めてあった彼は見事な巨漢でなかなか絵になる。スタジオ内でインタビューカットを撮った後、外に出てもらい隣のトンネル内で決めカットを撮影した。撮影はトンネルの入り口の壁により掛かりトンネルの出口が背景に写るようなフレーミングで撮影した。カメラはニコンF5にフジクロームアスティアを詰め、横位置の引きを28ミリで、縦位置アップを85ミリで撮った。

「お腹を壁に付けて身体をグーッと反らせて下さい。」
「壁に手をついてにらむような感じでこっちを見て・・」
等、色々なリクエストにこたえてポーズをとってくれた。
「はいッ!OK」と、僕の声で撮影が終了すると、
三波さんが「変なのが写らなければいいけど・・」と、妙なことを言った。
「大丈夫ですョ。なかなか格好良かったです。いい写真撮れました。」
「この上、墓地なの知ってます?」
「知ってますよ。墓地の下くりぬいてトンネルほってあるんですよね? え〜ッ!変なのって、その変なのですか? 写りませんよそんなの!」
一緒に歩いていたマネージャーが「ごめんなさい。この人、心霊写真とか大好きなんです。気にしないで下さい。無視して下さい。」
「僕はプロカメラマンなんで、心霊写真のインチキなんかすぐ見抜きますよ。」
そんな会話がはずんで、後日写真を見せてもらうことにした。

一週間ほど後、編集部に上がりを届けに行きそこで三波さんと再会した 。
マネージャーが写真をチェックしている間、僕は三波さんに彼が集めた「心霊写真」を見せてもらった。こういった写真はカメラマンが見るとなぜそうなったかわかるものがほとんどだ。

「これはレンズゴーストですよ。逆光で撮影すると、太陽の光がレンズ内部で反射して出るんです。確かに『ゴースト』ですけど、コーティングがあまり良くないレンズだと簡単に出ます。」
「これは手前に座っている人が吸っているたばこの煙です。フラッシュの光が強く当たってこれだけはっきり写ったんです。フラッシュの光は距離の2乗に反比例します。1mの距離を1とすると、2mでは1/4、3mでは1/9になります。この場合奥の人物に適正にフラッシュを当てると手前の煙には9倍の光が当たり、肉眼では認識できないような薄いモヤがこんな風に写ってしまうんです。」
「いるはずもないおばあさんが写っている?これは二重露光です。おそらくカメラをぶら下げて歩いている間に偶然シャッターが切れてしまったんです。この第一露光で意図しないおばあさんが偶然写ってしまった。次にこの滝の前で記念写真を撮ろうとしたとき、すでにシャッターが切れているので、押せない。慌てて巻き上げるときに巻き戻しクランクを押さえたまま巻き上げると、フィルムにテンションがかかって、パーフォレーションが裂けてしまう。するとフィルム送りがされずにシャッターチャージだけ行われて二重露光が起こってしまう。ネガのパーフォレーションを見ればすぐにわかりますよ。」

ケチョンケチョンに全否定してしまった。

写真チェックを終えたマネージャーと編集者の視線を受けて、慌ててフォローした。
「でも、まだ、科学では解明できない、不思議な現象もたくさんありますから、僕もすごく興味があります。また、ぜひ、見せてください。」

それから、毎年マネージャーから年賀状が届くようになった。

3年くらい年賀状のやりとりが続いた後、本人からはがきが届いた。
そのはがきには、芸能活動をやめて実家の長野に帰り家業を継ぐこと、心霊写真は今でもコレクションをしているが、人が撮ったものではなく自分で撮影していることなどが書いてあった。今度は自分が撮った写真をぜひ見てください。との後に、実家の住所とメールアドレスが書いてあった。
僕はいつぞやの無礼を丁寧に詫びたメールをすぐに出した。
それからメールのやりとりが続くようになった。
プロの歌手はやめてしまい、家業の造り酒屋を次いだ三波さんだが、年に1,2回知り合いのライブにゲスト出演したり、家業の営業で東京に来ている。メールをもらうと僕もいやとは言えずお茶を飲みに行き心霊写真を見せられる。

僕は自分のスタジオから歩いて新宿歌舞伎町の近くにあるジャズ喫茶「D」に向かった。
靖国通りを1本曲がり裏道に入り、地下に降りる階段をおりた。1段階段をおりるに連れだんだん音楽が大きく聞こえ、ドアを開けるとコーヒーのいい香りが漂っていた。
三波さんは入って左側の角の席に一人で座っていた。
「今回は何ですか?」
「明日、六本木の『SB』のライブにゲスト出演するんですよ。」
三波さんは以前より体重を50kg落としたそうで、最初にあった頃とは見違えるほどスリムになった。
それでも130kgある巨体を前のめりにして僕の前に写真を置いた。
「火の玉ってなんですか?」
「見てくださいよ!」
「これですか?どれが?火の玉ですか?」
「後ろに写っているでしょ。こっちも、これも・・」

見せられた写真は、居酒屋で撮った写真で、ど真ん中に三波さんが写っている。真後ろにビールのポスターが貼ってあり、そこにカメラのフラッシュが反射して丸く写っている。ほかの写真も同様で、ホテルのロビーで撮影した写真の後ろにはガラスのドアがあってそこにフラッシュの光が写っている。僕はあきれて、一蹴してしまった。

「何言ってるんですか?これはカメラのフラッシュの写り込みですよ。はっきり言って失敗写真じゃないですか。壁に対して真っ正面から撮るとこうなるんですよ。壁を背景にする場合は必ず壁に対して斜めの角度から撮ってください!これじゃ心霊写真どころか、素人以下ですよ・・・」

またケチョンケチョンにけなしてしまった。

ちょっと反省して話題を変えた。
明日のライブの話や、家業の話、僕の近況などをしばらく話し店を出た。
明日の打ち合わせとリハーサルに向かう三波さんに、
「また、見せてくださいね。今度はメールに添付してください。」と精一杯フォローしたつもりだったが、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

自分のスタジオに戻って、Webで六本木「SB」の明日のライブ情報を確認して、会場に花の発送の手配をした。

ライブ会場には仕事の都合でいけなかった。
普段だと翌日には花のお礼のメールが来るのだが、そのときはメールも来なかった。

それから1ヶ月くらい経った頃だろうか、三波さんから添付書類付きのメールが届いていた。
「今度は本当に写った」と言う添付写真を見ると木がたくさん写っている家族写真で、後ろの方に人くらいの大きさで「白いモヤ」のような縦長のものがうっすらと写っている。説明では家族で遊びに行った樹海の風穴近くで撮ったもので、何となく生暖かいいやな空気が流れていたそうだ。撮影時には気がつかなかったが後になってパソコンで確認して「モヤッとしたもの」を発見したそうだ。
「確かに何か写っていますね。ゴーストやフラッシュの反射ではないようですから、実際に何かがあったのでしょう。ただ人の陰に隠れて全体が写っていないのが残念です。その場で気がついて何枚も撮影していれば正体がもっとはっきりしたので残念です。デジカメなのですから、撮ったらすぐモニターで確認すると何かが写っていた場合すぐに気が付きますよ。」と、返事をしておいた。

それから2日後の夕方6時を過ぎた頃、仕事場で写真のセレクトをしているときに携帯電話が鳴った。表示された番号が知らない番号だったので、ぶっきらぼうな声で電話に出た。
「もしもし」
「あのー、突然すいません。三波の家内です。」
「三波さん?あー三波さんの奥さん。以前仕事で諏訪に行ったとき一度お目にかかってますよね?ご無沙汰してます。で?あれ?三波さんどうかなさいましたか?」
「実は、昨日から帰ってきていないんです。」
なんで旦那が帰ってこないのを僕に電話してしてきたのか?変な奥さんだな、と思いながらも聞き返した。
「携帯は?かけました?」
「ええ、かけたんですけど通じないんです。で、主人が出かけるとき変なことを言っていたので、主人の年賀状から携帯の電話番号を探して、失礼だと思ったんですがお電話した次第なんです。」
「変な事ってなんですか?」
「今度こそ、しっかり写真を撮って、本物の心霊写真と認めさせる・・・・とか?」
「えっ?心霊写真?で、僕ですか?」
「そうだと思うんです。いつも東京から帰ると悔しがっているんです。『また否定された』と・・・」
「あ〜すいません。それ僕のせいだと思います。そうですか、悔しがっていたんですか?いや〜申し訳ないことをした。でも、僕はどこに行ったか知りませんよ。」
「そうですか〜?何か手がかりになることでもご存じないかと、藁にも縋るつもりでお電話したんですが・・・そうですよね。じゃあ警察に捜索願を出してみます。」
「済みませんなんにもお役に立てなく・・・、ん?ちょっと待って下さい。一昨日だったかな、三波さんからメールが来たんですが、そこには息子さんと奥さんが写った写真が添付されていました。もしかしたら、そこにまた行ったんじゃないかと思うんですけど何処だったか覚えていませんか?確か『樹海の風穴で撮った』って書いてありましたけど・・」
「全然覚えていないんです。よく主人に連れられて不気味なところへ行くんですけど、私も息子も余り興味がないので・・・、車の中では寝てますし、あのときは洞窟だか風穴だか何ヶ所も行ったので・・・。」
僕は何か三波さんが行った場所の手がかりになるものがないかとパソコンのメールを開いた。
「ちょっと待って下さい。三波さんその時どんなカメラで撮っていたか覚えてませんか?」
「さ〜よく覚えてませんけど、いつも『プロカメラマンに勧められたカメラだ』って自慢してました。」
「そっか!奥さんもしかしたら三波さんが行った場所わかるかもしれませんよ!」

つづく


この話はフィクションです。
登場人物は実在しません。

2011年9月23日金曜日

僕の沖縄、ニコンF2と・・・。

ニコンF2フォトミックAs ファインダーは後になって替えたもの。
「西表島に行こうと思うんだ。」
「い・り・お・も・て・島? 何処にあるんだそれ?」階段教室の下の席から康平は上半身を後ろにひねって僕にたずねてきた。
「沖縄だよ。それも、沖縄本島から船で17時間かけて石垣島まで行き、そこからまた船で1時間行くんだ。」
午前中の授業が終わりほかの学生たちがぞろぞろと教室を出て行く中、僕は康平に夏休みの計画を話した。
「しかもまだ未開のジャングル状態らしいんだ。日本にもそんなところがあったんだな。」
康平は興味を持った様子でぐるりと後ろを振り返り
「いいな、西表島」
「だろ!いこうぜ西表島」

僕が最初に西表島を知ったのはそのときから半年ほど前、高校3年生も終わりに近い頃だった。各教室に一枚ずつ大きな日本地図が配られ教室の後ろに貼り出された。 先生の説明によると沖縄がアメリカから返還され日本に復帰することになった。それまでは日本地図に描き込まれていなかったのが晴れて、堂々と日本地図に描き込まれた。 それで新しい日本の地図が各教室に貼られたのだ。おそらくニュースや新聞でさんざん取り上げられていたと思うが興味がわかなかったのが、地図を見たとたん俄然興味がわいてきた。沖縄の位置を見てみると東京とグアムのちょうど中間の緯度で亜熱帯、今まではパスポートが必要だったが本土復帰すればパスポート不要。それまでも最果て志向で日本最北端-宗谷岬と、最東端-納沙布岬はすでに行っている。沖縄に行けば最西端、最南端が制覇できると思いそれから色々と調べ始めた。
沖縄は戦後27年にわたってアメリカの統治下にあったので全員が英語でしゃべっているのではないか?と言う疑問はどうやらそうではないことが解り、最西端、最南端は与那国島と波照間島で、与那国島に行く船は週に2便しかないことが解った。そして興味がわいたのが沖縄本島に次ぎ2番目に大きいにもかかわらず、ほとんどが熱帯系ジャングルでいまだに未開の地である西表島だった。

写真学科の学生になった僕は大学1年の8月、同級生の康平と二人で沖縄撮影旅行に出かけた。康平は夏休みに入っていったん実家の金沢に帰り、金沢から大阪、大阪からフェリーに乗って38時間かけて那覇に入った。僕は康平が那覇に着く時間に合わせ羽田から空路那覇に入り那覇空港で合流した。機内で少し頭痛がして、何とか早く直らないかと気をもんでいた僕は機内を出てタラップを降りはじめて、暑さで目眩がした。8月の亜熱帯沖縄の暑さは想像以上で、ターミナルビルに入るまでの間に頭痛が吹き飛んでいた。ターミナルビルで荷物を受け取って出口に向かうと、ガラス張りの向こうで康平が手を振っている姿が目に入った。

僕らは空港から歩いて市内に向かった。先ずビックリしたのは車が右側を走っていることだった。滑走路に沿ってしばらく歩いているとフェンスの向こう側に戦闘機が複数駐機していた。那覇空港は軍用空港でもあり旅客機とは違う戦闘機の爆音に緊張感が高まった。さらに進むと「Bank of America」の大きな看板があり、まるで外国にきたような雰囲気だった。僕と康平は沖縄に来たからにはめいっぱい沖縄を満喫しようと、何かを選ぶときは出来るだけ沖縄らしいものを選ぼうと決めていた。空港から3~40分歩くと、僕らがその日泊まる沖縄ユースホステルがある奥武山公園にさしかかった。ここは運動場や競技場がある大きな公園で、その奥にユースホステルがある。入り口を入ったところにジューススタンドがありそこで小休止をした。飲物を選んでいると見慣れないものがある。
「『ルートビア』ってなんですか?」
「コーラみたいなものだけど少し薬草くさいの、アルコールは入ってないよ」
僕らは迷わずルートビアを選び、一口飲んで卒倒した。サロンパスが口いっぱいに広がったようで、早速沖縄の洗礼を受けた。
ユースホステルに荷物を置くと、僕らはまた歩いて那覇市内を目指した。橋を渡るとすぐに国際通りになる。那覇のメインストリート国際通りは大きなホテルやデパートがあり、そこを3~40分歩き目指す平和通りに着いた。平和通りは東京で言うとアメ横のような通りで、雑多な店が所狭しと並んでいる。通りに入り目についたのは、乾燥した黒い蛇がたくさんぶら下がっていることだった。聞くと蛇ではなくウミヘビを乾燥させたもので滋養強壮用に薬膳料理などに使うものだそうだ。黒蛇の間をぬって奥に入り、何人もに尋ねながらやっと探し当てたのは「米軍放出品」を扱う店だ。
僕らが今回の10日程の旅で宿に泊まるのはこの日のユースホステルと石垣島でのユースホステル1泊の計2泊で、それ以外はテントに泊まる計画だった。そのテントを米軍放出品店で確保しなければ明日から泊まるところがない。幸い大きな店で放出品テントを手に入れることが出来た。康平は子供の頃ボーイスカウトに入っていてキャンプは慣れている。テントに関しては全面的に康平にまかせた。

翌朝僕らはビーチを目指した。目的の西表島に行く前にテントの具合を確かめたかったのだ。未開のジャングル西表で、もし装備に不具合が出た場合何も調達できないことを考えて、ビーチに1泊し装備のチェックをする算段だ。那覇バスターミナルからバスに乗り、目指したのは恩納村のムーンビーチだった。那覇から小一時間だったろうか、旧1号線をひた走り、普天間飛行場、嘉手納基地を過ぎムーンビーチでバスを降りた。ビーチならどこでもよかったのだが、テレビか何かで聞いたことがあるという理由でムーンビーチを選んだ。ところが着いてみるとビーチへの入場が有料だった。すぐに諦めてさらに先に進むとタイガービーチに着いた。ここも有料だ。さらに進むと右手にやたら派手な、しかも手書きで書かれた看板の、「万国百貨店」という店があり「米軍放出品」と書いてある。その真ん前が冨着(ふちゃく)ビーチで、入り口には入場料の表示はない。ちょっといかがわしい感じの「万国百貨店」にも興味があり、今夜の宿泊先は冨着ビーチに決まった。冨着ビーチは大きなリゾートホテルがなく人も比較的少なく、しかし僕らは遠慮がちになるべく隅の方を選びその日の寝床を決めた。グランドシートを引き、支柱を立てテントを張り、ペグを打って固定した。
テントの中に荷物を放り込むとカメラと財布を持って、なんだか怪しい「万国百貨店」に行ってみた。土産物や輸入食料、そして米軍放出品があった。その中から「Cレーション」と呼ばれる野戦食を非常食として、金属製の弾薬ケースをカメラバッグとして購入した。
左のレンズは35ミリ。28ミリはその後手放してしまった。
僕らは二人とも写真学生だ。目的の一番に写真撮影があった。僕は入学祝いに父に買ってもらった「ニコンF2フォトミック、ニッコール50ミリF2」ペンタックスSPを下取りに出して購入した「ニッコール28ミリF3.5」「ニッコール105ミリF2.5」そして長巻フィルムを自分でカットして詰めたTri-Xを20本程、以上が機材の全てだ。これら一式が弾薬ケースに収まり沖縄らしい雰囲気になった。康平もおやじさんから譲り受けた「ニコンF」を弾薬ケースに収めた。

僕らはその日、驚きの連続だった。冨着ビーチはどこまで行っても遠浅で、いくら沖に向かって進んでも胸より深くならない。しかも水が完全に透明で胸まで浸かっても自分の足がしっかり見える。こんなに透明でサラッとしていて塩が入ってるとは思えないと、なめてみると間違いなく海水だった。湘南の海の深緑色をしてちょっととろっとした海水が海だと思っていた僕の目からウロコが剥がれ落ちた。夜になってあたりは完全に真っ暗になり、空を見上げて驚いた。星が怖い程たくさんある。本当に空から星が降ってくるようだった。その中でひときわ明るい帯、それが天の川だと気付いてまた驚いた。僕は生まれて18年間本当の海と空を見ていなかったことに気付いた。

翌日、僕らを乗せた船は那覇泊港から石垣島に向けて出航した。およそ17時間かけて石垣島に着き、船を乗り継ぎ西表島に着いた。西表島は北部に船浦港、南部に仲間港があり南北を繋ぐ道はない。僕らは仲間川河口にある仲間港にたどり着いた。港にはコンクリート造りの事務所があって観光案内所を兼ねている。そばに壊れた大型バスが止めてありそこが船を待つ人の待合所になっていた。到着した船からは僕らの他に数人の乗客が降りたがすぐにいなくなり僕ら二人だけが港に残った。辺りには食堂も店も何もない。案内所には男の人が1人いて、翌日に行く「バスツアー」も翌々日に行く「クルーズ」も全て切り盛りしている。その唯一頼りになる案内所でキャンプをしてもよい場所、それと食堂を尋ねた。歩いていける範囲でキャンプが出来る場所として勧められた場所は港から3〜400メートル離れたところにあり、奥の方にほこらがある神社のような場所の前の広場だった。土は軟らかく草が生えていて寝心地が良さそうな場所を選んでテントを張った。早速カメラを携えて、港、海岸を撮影し、昼食をとる食堂を探した。紹介された辺りを探しても食堂らしい店がない。よくよく探してみると看板ではないが表札程度の大きさで食堂と書いてある民家があり声をかけると家人が現れた。中に入り品書きを出されやっと昼食にありつくことが出来た。店とは言えない民家で、テーブルが2席程あり、品書きには4つ程のメニューが書いてあったと思う。
その後仲間川、仲間崎などを撮影して歩き、さて夕食をどうしようと考えた。半日うろついたが食堂は他にない。また同じ店で夕飯はないと思い、食料品店を探したがそれもない。唯一あった雑貨屋でカップヌードルを見つけよろこんで購入した。
「お湯いただけますか?」
と聞いてみたがお湯はなかった。さてどうやってお湯なしでカップヌードルを食べるか?康平が持ってきた水筒には水が入っている。シェラカップが1個。僕らは海岸で薪になる木を探し、石を並べてコンロを作りお湯を沸かし始めた。水はたっぷりあるが問題は1回に沸かせる量は一人分、康平は1回目を僕に譲ってくれた。火力が弱く沸かすのに10分以上かかっただろうか、僕が食べ始めて、康平の分のお湯を沸かし始めたが康平は待ちきれなかったのか
「結構いけるぜ」
と乾燥したままの海老と麺を食べていた。
その日は歩き疲れて、暗くなるとすぐにテントに潜り込んで寝込んでしまった。
激しい雨音で目が覚めた。
時間は何時かわからない。南国特有のスコールなのかどうかわからないがとにかく激しい。すでに地面に触れていた側はびしょ濡れ、上からも雨漏りがしている。このままでは寝るどころではない。避難できるところは・・・港のバス。康平と意見が一致し、バスまで走って避難することにした。荷物は全部持っていけないので、着替えとタオル、それとカメラを持って行くことにした。早々に準備をして道順をお互いに確認し、
「行くぞっ!」
かけ声と共にテントを飛び出した。土砂降りの上、辺りは真っ暗だ。走って広場から道路に出てしばらく走ると康平が来ていない。
「康平!」
と叫びながら少し戻ると、康平は広場と道路の間の溝にはまっていた。
「メガネを落とした!」
康平が持っていた荷物を受け取り、懐中電灯で溝の方を照らす。康平は溝に手を突っ込んでメガネを探した。
「あった!」
「よし走ろう!」
しばらく走ると港の案内所の自動販売機が明るくあたりを照らしているのが見えた。真っ暗闇の雨の中、自動販売機に照らされてバスがうっすらと浮かび上がっていた。自動販売機に向かって走り、バスのドアを押しあけて中に飛び込んだ。ずぶぬれになりながらも避難場所が思いのほか快適でほっとした。タオルにくるんで抱え込んできた着替はそれほど濡れていない。カメラは防水弾薬ケースのおかげで無事だった。濡れた服をつり革に吊るして干した。僕らはほっとして、今走ってきた間の出来事をお互いに笑いながら話し、しばらくして座席シートの上で眠り込んだ。

翌日はすっかり晴れて、僕らは午前中「島内観光バスツアー」に参加、ハイエースは二人で貸し切りだった。ツアーから戻って昼食をどうするか考えた。例の食堂で昼を食べると、夜もまた同じ食堂で限られたメニューを食べなくてはならない。1日2回、毎日同じ食堂は出来れば避けたい。食堂では夕食を食べ、昼食は別に確保する事を考えたが、食料品店はなく、雑貨屋には缶詰などしか食料は売っていない。バスツアーで走っている間は、いたるところにパイナップル畑があるのだが売っている店がない。港の案内所で聞いてみる事にした。
「すいませんパイナップルが欲しいんですけどどこで買えますか?」
「えっ?パイナップル?畑に行けばあるでしょう?」
「いえ、欲しいんです。買いたいんです。」
「パイナップルが欲しい?だったら港にいっぱい積んであるでしょう?誰かいたら誰かに、誰もいなかったらパイナップルに断って持って行きなさい。」
どうやらこの島ではパイナップルは売っていないらしい。
僕らはさっそく港に行き、パイナップルに断って一人2個づつ頂戴した。
浜に行き、岩の上にパイナップルを置き康平が持ってきたナイフでさばいて1個づつ贅沢に食した。その後僕らは、ナイフさえ持っていればこの島で空腹になることも、喉が渇くこともなくなった。
その夜は、スコールがきたら逃げる用意をして、テントで眠りについた。

翌日も晴れ、「仲間川ジャングルクルーズ」に出かけた。小さなエンジン付ボートで、マングローブの間を抜け上流に向かい探検気分を味わいながらたくさんの写真を撮影した。
クルーズから戻りパイナップルで昼食をとりいったんテントに戻ると、僕らがテントを張っている広場に二張りテントが増えていた。聞くと大学の探検部グループで、島の反対側、船浦港に上陸し浦内川を遡りマリュード滝、カンピラ滝を通り仲間川上流から下って仲間港にたどり着いたそうだ。ここで1泊した後、与那国島に向かうとのことだった。見ると彼らのテントのまわりには白い粉がまいてある。
「あの粉はなんですか?」
「あれはハブよけの硫黄です。」
「ハブよけ?」
「夜寝ている間にテントにハブが入らないようにです。ハブは硫黄が嫌いなので・・、なければ枯れ葉をまいてもいいんです。ハブが通るとカサカサ音がしますから、起きて追っ払えばいいんです。」
「硫黄はどこで買えますか?」
「薬局で買えますが・・・、良かったら使って下さい。この後行く与那国島も宮古島もハブが生息していないので。」
「さすが探検部。」
僕らが夕食を例の食堂で食べてテントに戻った頃には、彼らはもう寝ていたようで、翌朝起きたときにはすでにテントも彼らの姿もなかった。

その日の午後、僕らも西表島を離れ石垣島に戻り、ユースホステルに1泊した後、17時間かけて本島に戻った。

その後、康平はまた船に乗り大阪経由で実家に戻り、僕は1人テントでもう1泊してから次の日の朝、空路家に帰る。最後の日、康平の乗った船を見送った後、僕はまた冨着ビーチに向かった。午後の冨着ビーチは人影もまばらだった。
今回の撮影旅行では、自分にとっての標準レンズである28ミリを付けたままで、50ミリ、105ミリに交換することはほとんどなかった。ビーチで50ミリや105ミリを付けてニコンF2フォトミックで撮影していると、高校生ぐらいの4人グループの女の子がわいわい楽しそうに話をしている。3人は水着の上にTシャツを着ていて、そのTシャツのまま海に入っている。沖縄の女の子達は焼けるのを嫌いTシャツを着たまま泳ぐと聞いたことがあった。が、4人の内1人だけオレンジ色っぽい花柄のビキニを着ており、Tシャツを着ていない。海から上がってもビキニのままで3人の話をニコニコ聞いている。とてもかわいく見えたので思い切って声をかけてみた。
「あの〜すいません。僕、学校で写真の勉強をしているものなんですが、モデルになってもらえませんか?」
「あ、この子耳が聞こえないの。」
「あっ、そ〜なんですか。じゃあ聞いてもらえませんか?モデルやってもらえないか?すぐ終わりますから・・」
隣にいた女の子が「しゃしんの〜モデルをやってもらえませんか?って」
手話ではなく身振りを加えてゆっくりと話しかけると、
「わたし?」と聞き返しコクリとうなずいた。

写真学科に入学して4ヶ月あまり。ほとんど風景や、スナップばかり撮影していてモデル撮影などはしたこともない。
ニッコール105ミリ F2.5 旧タイプ
初めての水着撮影は、使い慣れない望遠レンズ105ミリで、絞りを開け目にして背景をぼかしたり、また28ミリを付けて背景の海をいかした撮り方など、知っている技術を駆使して撮影した。友達3人が興味津々見守る中、30分程撮影した。「ありがとう」とゆっくり喋ってみたが「なに?」と聞き返されたので、手のひらをとって「あ・り・が・と・う」とひらがなで書いてみた。意味は伝わったようで、彼女は「ありがとう」と言葉を返し、ぺこりとお辞儀をした。
待っていた3人に冷やかされるように肩をたたかれながら、彼女たちは4人で楽しそうに帰って行った。僕はその後ろ姿を見ていた。少し進んだ後、一瞬彼女だけが振り返り、笑顔でこちらに手を振って去っていった。

その夜、僕は砂浜にテントを敷き、その上に寝転んだままで一晩を過ごした。星は夜空一面に広がってきらきらと瞬いていた。ずっと目を開いたまま星空を見ていると、いくつかの流れ星が天空を横切った。

18歳の若者2人が沖縄で受けた影響は少なくなかった。
ジャーナリストを目指していた康平は、何か思うことがあったのだろう。1年生が終了した時点で大学を中退した。東京で1年間浪人した後、沖縄の大学に入り直し、沖縄で大学を卒業。高校の国語科教師になった。
僕は卒業後ファッションカメラマンのアシスタントをして、のちにフリーのカメラマンになった。
女性ファッション誌では5月末に発売する7月号で必ず水着特集が組まれる。4月になると海開きをする暖かい沖縄でよく水着ファッションの撮影をする。僕はカメラマンになって2年目から女性誌のファッション撮影を担当し、それから4〜5年間、毎年のように沖縄で水着撮影をした。最初に沖縄で仕事をしたときのカメラはあのときの「ニコンF2フォトミック」だった。



※現在、本島から石垣島への船の定期航路はなく、航空路線に変わっている。
※また、西表島も現在は南北を結ぶ道路が出来ている。パイナップルも有料だ。

2011年9月16日金曜日

彼女のバイクとニコンD3と

 三紗子は右手で喉もとのバックルを外した。
「カチッ」という乾いた音が地下駐車場に響いた。
中指を引っ張り、左手続いて右手のグローブを外すとアプリリアのタンクの上に置き、両手でフルフェースのヘルメットを脱いだ。
くるりと巻いてヘルメットに納めていた髪が「クルン」と踊るように廻り背中で跳ねた。肩甲骨の下まである長い髪を三紗子は左手で掻き上げると、左の鎖骨部分にあるジッパーを右下に向かって斜めに一気に下げ、黒いライダースジャケットの前をあらわにした。
ヘルメットをバイクのミラーに無造作に掛けると、頭を左右に振りながらエレベーターに乗った。
2階のボタンを押し、エレベーターが動き出すのに合わせるかのように左右の肩を揺らしライダースジャケットを脱いだ。エレベーターの天井のダウンライトが三紗子の真っ白いTシャツに反射してあたりを照らした。黒革のパンツのコインポケットから鍵を取り出しエレベーターをおりた。

三紗子の家は元麻布の暗闇坂を上がった住宅街にある3階建ての一軒家だ。地下が駐車場、1階がスタジオ、2階、3階が住まいになっている。
元は俳優をやっていた叔父夫婦の住まいだった。6年前叔父が亡くなり、一人暮らしになった叔母が寂しがるので一緒に住むことを考えていたが、それもかなわぬうち叔母も2年前に後を追うように逝ってしまった。その後、叔父が若い俳優を集めては芝居の稽古をしていた1階の稽古場を撮影スタジオに改装し、2階に一人で住んでいる。3階はもともと叔父がインタビューを受けたりするために作った応接室だったが、今は叔父の俳優時代の資料をまとめて保管してある。

冷蔵庫を開け、中に頭を突っ込むような奇妙なしぐさをしてペットボトルのクリスタルガイザーを取り出した。リモコンでボーズのウェーブレディオをオンにして、革のパンツを脱ぎ、Tシャツとショーツでソファーに転がっているとしばらくしてインターホンが鳴った。
「片岡ですッ!今駐車場に車止めました」
「片岡クン、おつかれ~!悪いけどカメラバッグだけスタジオに入れといてくれる。そしたらあがって下さい」
「はい。鍵はドアポストに入れときますッ」
ロケ撮終了後、三紗子はバイクで先に帰宅し、アシスタントの片岡が車に機材を積んで戻ったのだ。
しばらくしてドアポストにカチャリと鍵が落ちる音を聞き、三紗子はTシャツとショーツを脱ぎシャワールームに入った。

午前2時をまわった頃、三紗子はソファーで目を覚ました。シャワーを浴びた後しばらく本を読んでいたが、ソファーに横になりジョン・コルトレーンの say it を聞いているうちに眠り込んでしまったのだ。ソファーに横たわって4分と経たないうちに眠りに落ちてしまった。
「いけない、セレクトしなきゃ・・・」
と小声でつぶやくと、三紗子は誕生日にもらったピンク色の熊の足の形をしたスリッパを履き階段で1階に下りた。
鍵を開けドアを開けると、真っ暗なスタジオに緑色の人が走る格好をした蛍光灯だけが点いていた。その光を頼りに右の壁をまさぐってスイッチを入れた。7m×9mのスタジオ全体が蛍光灯で浮かび上がった。入って右側の天井から、電動バトンがぶら下がっておりサベージが掛けてある。左側の壁際にパソコンテーブルがあり、その横の60cm角のサイコロの上にアシスタントの片岡が運び込んだカメラバッグが置いてあった。
ベージュ色したドンケF-2のフックを外しカメラストラップを引っ張り上げ、中からニコンD3を取り出した。キーボードを中指の爪で軽くたたくと、27インチiMacが、HDDがまわる音と共にスリープから目覚めた。ニコンD3にUSBケーブルをつないでカメラのスイッチをオンにすると、Macのドックにアイコンが現れニコントランスファーが起動した。「D3」と表示されるまで1~2分かかった。「転送開始」をクリックして処理状況のバーが動き出したのを確認し、階段で再び2階に上がった。
3000枚も撮影するとMacにデータを取り込むのに10分位かかる。この間に三紗子は顔を洗い 、冷蔵庫を開け頭を突っ込むようなしぐさで中を物色した。アボガド1個と皮が少し黒ずんだバナナ2本とクリスタルガイザーが4本、後は飲みかけの赤ワインとマヨネーズが入っていた。
バナナ1本とペットボトルを下げてスタジオに戻ったが、まだニコントランスファーは転送を終了していなかった。
オーディオのスイッチを点け有線をA37に合わせた。メールをクリックして中身を確認していると、それを遮るかのようにView NX2 が起動した。データ転送が終わったのだ。ブラウザーに今日、正確には昨日撮影したモデルの写真が浮かび上がったがまだ動きが鈍い。さらにしばらく待たないと画像表示に遅れが出るのでもう一度メールをチェックして時間をつぶす。スリッパを「パタン」と床に落とし椅子の上にあぐらをかいた。下はグレーのハーフパンツ、上は黒のキャミソールの上にグレーのパーカーを着ている。黒ずんだバナナの皮をむいて傷んだ部分を避けて三口かじり、傍らのゴミ箱に捨てた。ファイヤーフォックスを立ち上げ facebook をチェックする。地球の形をしたマークの横に赤い色で4と書いてある。メッセージを開くと3年前に別れた元夫からメッセージが入っていた。

ViewNX2をあらためてみると3027枚、24カット撮影しているので、1カットにつき120枚撮影している計算になる。フィルムだったら6×6で10本分はちょっと撮りすぎだ。5本も撮れば十分だろう。デジタルになりフィルムチェンジもなく経費もかからないので、撮影枚数は確実に増えた。その代わり撮影データを全てクライアントに渡すわけにはいかないのでセレクトしなくてはならない。RAWで撮影すれば現像処理が必要なので、そこまでがカメラマンの仕事になった。三紗子の場合、撮影時にグレースケールでホワイトバランスをプリセットし、JPEGで撮影している。後処理の手間を少しでも省くためだ。それでも5時間かけて撮影した場合、全カットを見てセレクトし若干の調整を加えるのに約5時間かかる。三紗子はこれからそのセレクト処理をしなくてはならない。
先ず1回、全カットを見ながら目つぶりなど明らかに使えないコマをゴミ箱に入れる。次に画面を拡大しピント外れや表情をチェック、さらに同じ表情同じポーズのコマを省く、3000枚の写真を最低1往復半チェックして約半分に減らさなくてはならない。撮影の後は眼精疲労が激しくセレクトは結構辛い作業になる。

三紗子はMacの前であぐらをかき、左手でキーボードをたたき右手でマウスを操り、だめカットをゴミ箱に入れる。時々首を回したり、腕を回したりしながらだらだらとセレクトをしているとSkypeコール音が鳴った。突然の着信音に一瞬ビックリした。Skype名を見ると facebook にメッセージが入っていた元夫だ。
「今、朝?夜?」受話器のアイコンをクリックすると元夫の声がした。
「今何時?」
「 ん〜と 4時47分」と元夫。
「さっき4時間寝たから朝かな・・」同じ4:47でも寝て起きていたら朝、まだ寝てなかったら夜だ。
「facebookにメッセージ入れたけど見た?」
「 ん〜見たけど無視した。」
「なんだよ〜」
「それよかさッ、なんかD3が最近遅いんだけど何でかな?」元夫は元カメラマンで現在はアートディレクターをやっている。メカ好きで、三紗子より機材に関しては詳しい。
「ニコンD3? 遅いって、何が遅い?」
「なんか・・全部。」
「なんかじゃわかんないよ、撮影?取り込み?」
「ん〜 取り込みとか・・・ぼちぼちD3sに替えた方がいいのかな? D3sってD3とどう違うの?」
「カタログ見ないと詳しくは解らないけど、明らかなのは動画撮影機能と、高感度撮影・・どっちも三紗子には関係ないだろう?」
「撮影は早いの?」
「三紗子のD3はバッファメモリー増設してるだろ・・だったら連続撮影コマ数は変わらないと思うよ。むしろ今のままの方がいいかも・・・ あ〜もしかして、CFカードは何使ってる?あと画像記録モードは?」
「CFカード?・・16ギガ、133x・・もう1枚は8ギガ、ウルトラII」
「記録モードは?」
「それどこ?」
バッファーメモリー増設のマーク
「モニターの下の感度の横に『JPEG』て書いてないか?」
「書いてある『JPEG+JPEG』って」
「あ〜それだな・・バックアップ記録にするんだったらCF 2枚とも早いのにしないと、遅い方の影響受けるから・・連続撮影中にシャッター切れなくなることないか?」
「そ〜それ!あるっ!シャッター押しても切れないの、だいたいい〜時にそうなるんだ、時々三脚蹴飛ばしてる」
「そしたらCFカード替えな、少なくとも400倍速、出来ればエクストリームプロ、660倍速かな?その代わりめちゃくちゃ高いけど」
「え〜いくら位・・」
「1枚3万はしないだろ、2枚で5〜6万かな?カメラ替えるよりは安いだろ?」
「たっか〜い・・わかった、今度替える・・ところでさっ、お腹すいた、なんかご馳走して! 昨日さ〜ロケ終わりでサンドウィッチ食べただけでまともに夕飯食べてないの」
「えっ!今から?」
「うん!」
「朝の5時だぜ〜」
「だってfacebookに『今度ゆっくり食事でもしないか?』って書いてあったじゃ〜ン、あれ嘘か?」
「いや、嘘じゃないけど・・・」
「だったらご馳走してよ〜朝ご飯・・もうセレクト飽きちゃった! Mac動きが遅いしッ!」
「Macが遅いってハードディスクにデータため込んでるんじゃないか?ちゃんと・・」
「わかった、わかったから!なんか美味しいもの!」
「美味しいものって・・こんな時間に・・、そうだ築地!」
「築地?」
「この時間でもやってるし、美味いものいっぱいあるぞ、寿司、マグロ丼、ウニ丼・・」
「ウニ丼ッ決定!!行く行く!ウニ丼!」
「じゃあ・・行こうウニ丼! 俺は10分ででれるぞ、バイクで・・この時間なら30分かからないかな、5時半には行ける、築地。あんまり遅いと終わっちゃうぞ、店」
「わかった。10分で出る。私もバイクで行くから・・5時半築地。ひゃ〜楽しみ〜」
「着いたら携帯に電話くれ、いい店探してっから!」
「OK!  あっ! あと言っとくけど、口説いてもだめだからね」
「ば〜か!ウニ丼食いながら口説くか!切るぞ!!」

三紗子はiMacをスリープにするとスタジオの電気を消し、急いで2階に駆け上がった。

細身のストレッチデニムにデニムジャケットを着てエレベーターで地下駐車場に下りた。時計は5時20分を指していた。
赤とシルバーのアプリリアにまたがり、駐車場のシャッターのリモコンを押した。髪の毛をうしろで束ねバックミラーに掛けてあったヘルメットを手にとった。右手で髪を押さえたまま左手でヘルメットを被ろうとしたが、いったんヘルメットをタンクの上に置くとバックミラーに自分を映しメイクをチェックした。顔を左右に振って小さなミラーに右、左交互に眉とアイメイクを映し確認した。もう一度髪を束ね、長い髪をヘルメットの中に納め、喉もとのバックルを留めた。シャッターは上がりきっている。セルを回しスロットルを開けるとV型2気筒のエンジンが低く唸った。駐車場のスロープをローギアで上ると左手でクラッチをにぎったまま右手で駐車場のシャッターを閉めるリモコンボタンを押し、リモコンをデニムジャケットの胸元のポケットに突っ込んだ。シャッターが閉まるのを待たずスロットルを開けゆっくりとクラッチをつないだ。
まだ日の出前だが、暗闇坂はかなり明るくなっている。三紗子のアプリリアが咆哮をあげ、大黒坂に吸い込まれていった。
三紗子の後ろから風が追いかけていくように見えた。


 ※今回の話はフィクションです。
登場人物は実在しません。

2011年9月11日日曜日

「マミヤRZ67プロフェッショナル」の逆像呪縛    あるいは「Hasselblad」その3    または 働くカメラ「マミヤ」の変遷

どんな仕事でもそうだと思うが、仕事のランクは下から上に上がって行く。僕が言いたい「下から上」というのは「足」「腕」「頭」を使う様にランクが上がるという意味だ。
カメラマンに成り立てのころは、
「何時いつ何処どこへ行って何なにを撮ってきて下さい」といった、内容はともかく写真が必要だという使いっ走り的「足」の仕事。記事中写真としてのあつかい。
少しランクが上がると、
「こんな写真にしたいんだけど出来るかな?」「出来ますよ。ライトを加減して長玉でボカせばこうなります」といった、技術が要求される「腕」の仕事。写真中心だが文章も重要なページが多い。
もっとランクが上がると、
「今回こういうテーマなんだけど」「わかりました。じゃあ、画作りは任せて下さい」といった、アイデアやセンスが要求される「頭」の仕事。写真が全面に使われる、いわゆるグラビア写真等。
ランクが上がるに連れ写真の大きさ、あつかいも大きくなってくる。

カメラマンになってすぐ、無理して購入したハッセルブラッドだが、いっこうに中判カメラの出番はなかった。しかし、もしもそんな仕事が来てもシステムが揃っていない。当初の予算内で購入できたのは500C/Mボディと150ミリ望遠レンズのみ。仕事で本格的に使おうと思えばさらに、50ミリ広角レンズ、80ミリ標準レンズ、フィルムマガジンが2個、合計70万円ほど必要だった。日頃使っているニコンのカメラボディを新機種に替えたり、交換レンズを明るいレンズにグレードアップしたり、そんなこんなに受け取ったギャラを使っていてとてもハッセルブラッドにまで予算がまわらないでいた。ポラカメラとして使っていたハッセルだったが、1982年「コンタックスプレビュー」ポラカメラが発売され、ニコンマウントに改造し使い始めるとますますハッセルの出番はなくなっていった。そして友達の友達に貸したところ「使っていないのなら是非譲って欲しい」言われ、35万円で譲り渡した。カメラマンになって2年を過ぎたころだった。

これが基本形のRZ 110ミリ付
ハッセルブラッドを何れはシステムで揃えようと思っていたのだが、何を買うにも日本製のカメラと比べて2倍以上の高額でなかなか手が出ない。ここはステータスよりも実用性を考えて日本製中判カメラをシステムで揃えることを考えた。当時プロが使っている中判カメラは「アサヒペンタックス6×7」と「マミヤRZ67プロフェッショナル」が二大主流であった。ペンタ67は35ミリカメラを大きくした形で、手持ち撮影も可能なフィールドカメラ。RZ67は三脚にのせてじっくり撮影するスタジオカメラの位置付けだった。僕はハッセルの替わり、と考えるとペンタ67ではないと思いRZ67に決めた。予算はハッセルを売ったお金の35万円。新宿のYドバシカメラ西口本店でRZ67ボディ、110ミリ標準、180ミリ望遠レンズ、フィルムマガジン3個、ポラマガジン一式、スタジオで人物を撮影するのに十分なシステムをちょうど35万円で購入したと記憶している。当時の愛車 ホンダVF400のタンデムシートにうずたかく積み上げて縛り、後ろ手で確認しながら下北沢のアパートに持ち帰った。
このマミヤRZが僕が仕事で使った最初の中判カメラである。

180、ペンタプリズム、ワインダーを付けたRZ67。合体ロボか? 
「マミヤ」と聞いても聞き慣れない方がほとんどだと思う。昔は35ミリカメラやコンパクトカメラも作っていたが1985年に事実上倒産してからはターゲットを絞りもっぱらプロ向けの中判カメラを作り続けている。645、6×6、6×7の3サイズの中判カメラをプロカメラマンや営業写真館向けに作っていて、ハイアマチュアの使用者はいるが、一般コンシューマー向けカメラは現在も出していない。

このRZも雑誌の撮影ではなかなか出番はなかったが、しばらくしてB全ポスターの依頼を受け本格的にRZを使い始めた。
雑誌の場合はカメラマンにまかされる部分が多いが、ポスター撮影などはしっかりとレイアウトが決まっている。モデルの場所、背景の色、文字の位置、全ては事前に決まっていて、それに合わせて撮影しなくてはならない。その時はモデルは右の位置で向かって左を向き、左にキャッチコピー、下に会社名などが配置されたレイアウトだった。デザイナーが描いたラフコンテを見ながら、先ずはセットを組んでライトをセットしポラを切る。デザイナーとディレクターがそのポラを見てクライアントと相談、そんな進行状況だった。
僕はその頃は35ミリのニコンで撮影することがほとんどなので、はっきり言ってRZ67にはあまり慣れていなかった。ニコンとの違いはたくさんある。シャッターを切ったとたんファインダーは真っ暗になり、フィルムを巻き上げるまでファインダーは見えなくなる(ハッセルも一緒)。ファインダーは正面向きでなく真下を見るようにのぞき込む。大きな違いは、左右が逆さまに見えること。傾きをなおそうとしても左右の空きを調節しようとしても反対に動かしてしまう。モデルを見て、ファインダーを見ると反対に見えてしまって混乱するので、ファインダーの中に集中することにした。「モデルの背中側を減らして前側の空間をもう少し大きく取り、全体を少し引いて周りに余裕を持たせ・・・」こんな風にフレーミングを決めポラを撮る。そのポラを元にデザイナーがトリミングスケールとトレぺを使ってレイアウトを詰めて行く。順調に撮影は終了し、ラボにテスト現像を出し家に帰った。
撮影したポラは全てクライアントとデザイナーが持ち帰った。僕の手元に残ったのはラフコンテ・・・。モデルは右で左に空き・・・。こんなレイアウトで撮った記憶がない。全部モデルを左に配し、右に空きを作った。もしかして全部左右反対に撮ってしまった?いやそんなことはないファインダーが逆に映るからだ。解っていても心配になってしまい何でポラ1枚手元に残しておかなかったのか後悔した。もしかしてラフコンテを裏返しに見て本当に左右反対に撮ってしまったかも?そんなことはない。デザイナーもクライアントも確認している。でももしかして左右が逆だった場合、裏返しに製版すれば救えるか? いやそれは無理だ、服のあわせが反対になってしまうからそれは出来ない・・・。延々そんなことを考えてしまい眠れぬ夜を過ごしたが、、、翌朝ラボに行ってみれば全て取り越し苦労。問題なく左右はコンテ通りに写っていた。

仕上がりは上々で初めてのポスター撮影には十分満足できた。それまでは雑誌に写真が載っていてもすごく満足出来たのだが、大きく印刷されたポスターが駅や街の中に張り出されるのはカメラマン冥利に尽きる喜びだった。

その後「マミヤRZ67プロフェッショナル」の出番は徐々に増え50ミリ広角レンズ、250ミリ望遠レンズなどと左右が正像に見えるプリズムファインダーを購入し「左右逆像」の呪縛からは解き放たれた。

RZ67と645AFD
だんだんと写真のあつかいが大きくなり巻頭グラビアを依頼されるようになると1枚の写真がページいっぱいに伸ばされて使われるようになる。そうなると35ミリカメラよりブローニーフィルムを使った中判カメラで撮影した方が画質的には圧倒的に有利だ。しかし、マミヤRZ67は手持ちでロケで撮影するような万能カメラではない。フィルムは同じブローニーフィルムだがサイズが一回り小さい645カメラを検討した。これも当時の主流は「ペンタックス645」「マミヤ645」の2機種だった。たぶんペンタ645を使っているプロの方が多かったと思うが僕はマミヤ645を選んだ。理由はポラが切れるから。ペンタックスはプロ用カメラであるにもかかわらず67も645もポラが撮れない。その方がメカ的にシンプルになったりコンパクトに仕上がったりのメリットはあると思うが仕事上はポラは必須だ。そんな理由から「マミヤM645スーパー」を2台購入しグラビア撮影に使い始めた。
初めてロケで使ったのが鎌倉にある日本庭園でロケをした新人女優さんの撮影だった。庭園で撮影しているときは気にならなかったのだが、和室の室内で撮影し始めて音の大きさに驚いた。ニコンだったら「カシャ!ウィン(シャッター音と巻き上げ音)」程度の音だがマミヤ645は「ガシャンッ!ギャーーッ!!」ととてつもなく響く。新人女優さんに「元気のいいカメラですね」とほめられた。
このへんがペンタ645との違いなのかと、ちょっと後悔した瞬間でもあった。

645一式をバッグから出した。レンズは5本しか写っていない。
しかし音はさておき、手持ち撮影も可能でブローニーフィルム1本で15枚撮影でき(67は10枚)、ポラも撮れる。あつかいの大きいページの仕事は645で撮影するようになり、だんだん取材モノは35ミリそれ以外は645がメインになっていった。1992年にモデルチェンジした「マミヤ645PRO」は動きも滑らか、音も静かになったのを確認し3台導入。騒音の呪縛からも解放された。レンズは45ミリF2.8、80ミリF2.8、110ミリF2.8、120ミリF4マクロ、150ミリF2.8、210ミリF4、300ミリF5.6、55-110ミリF4.5ズームの8本になり、アシスタントなしでは運べないほどの大荷物になった。

デジタルカメラの時代になって35ミリカメラの撮影はすべてデジタルに変わっても、中判カメラの圧倒的高画質はデジタルでも追いつかずしばらくはデジタルと中判フィルムカメラを併用した。
2005年キャノンが「EOS 5D」を発売したころからプロの世界でもデジタルへの移行が始まり、2007年「ニコンD3」を導入したころから僕の仕事もデジタルに完全移行した。


現在はフィルムカメラ マミヤ645の出番はない。
しかし、2002年に僕は新たなマミヤを導入した。「マミヤ645AF D」 当初はフィルム撮影で使用していたが、フィルムバックをデジタルバックに交換するとデジタルカメラにもなる。しかもプロ用デジタルバックのフェーズワン、リーフ、両メーカーと連携しハイエンドデジタルカメラに変身可能。ニコンやキヤノンと違い、必要に応じてデジタルバックを交換すれば、カメラごと新機種に買い換えなくてもよい次世代に対応できる仕事カメラである。

フィルムバックをデジタルバックに交換すればAFデジタルカメラになる。ただし、バックだけで100万円以上する・・・(汗)。

2011年9月1日木曜日

僕の初一眼レフカメラ 「アサヒペンタックスSP」


僕の初めての一眼レフカメラ、それは「アサヒペンタックスSP」だった。

ペンタックスSP 55mm付 ¥42,000
その年 僕は埼玉県の県立高校に入学した。
中学3年生の受験勉強中、父から「公立高校に一発入学できたら、なんか入学祝いを買ってやる。だからがんばって勉強しろ!」
と言われ、自分なりにがんばって志望校に合格した。その高校は僕が入学する前年の選抜春の高校野球で甲子園で優勝していて、僕が入学した年の競争率はそれ以前より高かった。それはさておき、
「入学祝っていくらぐらい?」
「5万円!」
確か、当時の1ヶ月の小遣いが2000円。5万円はビックリするほどの大金だ。
欲しいものがいくつかあって、
グライダーのパイロットになるための航空倶楽部への入会、映画を撮影するための8ミリカメラと映写機、一眼レフカメラ、反射式天体望遠鏡・・・思い出せるだけでこんなものが自分の中で候補にあがっていた。
高校生でも入会できる学生航空連盟の入会資格を調べたら視力に関する規定があって『裸眼で0.○○以上』という規定にひっかかり入会できないことがわかった(今はこんな規定はない)。
入学後、クラブ活動で「映画部」に入部し8ミリカメラを買ってもらおうと思ったが、入学してみたら「映画部はかつてあったが、部員がいなくなり廃部になった」。
天体望遠鏡は「普通のものが見えない」と父に反対され、結局一眼レフカメラを買うことになった。

 父と一緒にその年の「日本カメラショー」を見に行き、何台もの一眼レフカメラを実際に手にとり、カメラ総合カタログをつぶさに研究し、最終的に「アサヒペンタックスSP」に決めたのだった。
当時、キヤノンFT、ニコマートFTn、ミノルタSRT101 などが候補にあがり、最後まで悩んだのがニコマートだった。ペンタックスとニコマートでは価格差はそれほどなかったが、交換レンズなど後にシステムで揃えるとニコンでは圧倒的に高くなる。さらにペンタックスならどの店で聞いても定価から10%以上値引きされるのにニコンはどこでも5%しか引かず、後々レンズを増やすことを考えてペンタックスにしたのだった。
交換レンズなくして一眼レフにあらずと、ペンタックスSPの標準レンズを50ミリF1.4よりも値段の安い55ミリF1.8付に押さえて、予算を少しオーバーしたが「サンズーム」をセットにして入学祝いとして買ってもらった。
これが僕の初めての一眼レフカメラになった。
ニコマートFTn 50mmF2付 ¥46,500
高校に入って入部した写真部は新入部員5〜6人、全部員で15名ほどいて理科室が部室、隣に暗室があってそこで初めて写真の現像、プリントを体験した。薄暗く赤い暗室電球、酸っぱい酢酸のにおいの中、現像液の中の印画紙にゆっくりと画像が浮かび上がってくるときの感動は今でも忘れてはいない。
僕の通った高校は当時男子校で(今は共学になっている。今でも何故男子校に行ったのか後悔している)、女子と交流できる機会は文化祭くらいしかなく、写真部全員が文化祭に懸けていた。1年生が文化祭で作品を展示するには3年生の審査が必要で、OKがでなければ1枚も展示できない。それこそ自分の写真が1枚も展示できないことは写真部員としては一大事で、なんとしても良い作品を撮らなくてはならない。僕は一大決心をして夏休みに北海道一周撮影旅行を敢行した。

サンズーム 定価 ¥27,000
僕の持っている機材は「アサヒペンタックスSP」、レンズは「スーパータクマー55ミリF1.8」、レンズメーカー製「サンオートズームレンズ85-210ミリF4.8」の2本しか持っていない。広大な北海道を撮影するにはどうしても広角レンズが必要だ。高校1年の夏休みの前半2週間アルバイトをし、そのアルバイト代で「スーパータクマー28ミリF3.5」を買って、夏休みの後半1人北海道に向かった。

上野発の夜行列車は最初は混んでいたが、宇都宮を過ぎたころから結構すいてきて、4人掛けのボックス席を1人で占領することが出来た。しかし、横になっても斜めになっても何とも寝心地が悪く寝たのか寝てないのかわからないうちに青森駅に到着。ここからいよいよ本格的に撮影を開始した。青函連絡船、大沼公園、積丹半島、札幌、旭川を経て釧路に到着したのは3日後くらいだっただろうか。

広い北海道を効率よく、しかも安くまわるために僕が考えたのは夜行列車での移動だった。大沼公園、積丹半島を回った後札幌に着き、夜行列車に乗って旭川に向かう。層雲峡などをまわった後、また夜行列車に乗って次の目的地に向かう。これだと宿泊代がかからず、寝ている間に移動できる。寝かたも次第になれてきて、ボックス席の椅子のクッションをはずして床に置きその上で寝ると結構眠れる。

釧路からバスに乗ってこの旅一番の目的地「丹頂の里」に着いた。記憶は定かではないのだが、何かのドキュメンタリーで見たのだと思う。丹頂鶴が一年中いてその優雅な姿を撮影できる場所が釧路湿原にある。その後テレビドラマ「池中玄太80キロ」(1980年)で紹介され有名になったが、僕が行ったころはあまり情報もなく、現地に着いて「丹頂鶴の写真が撮れるところ」を地元観光案内所で聞いてたどり着いたのだ。

ここまでは、買ったばかりの広角28ミリレンズが新鮮でレンズ交換をしていない。今でもそうだが、新しいレンズを買うと写欲が湧きどんどん写真が撮れる。この丹頂の里では北海道に来て初めて85-210ミリズームを付けて丹頂鶴を撮影していたのだが、210ミリでは望遠レンズとしてちょっと物足りなく思っていると、三脚に長玉を付けて撮影している方がいた。しかもペンタックスだった。確か500ミリだったと思うのだが、思い切って話しかけてみた。「望遠何ミリですか?覗かせてもらってもいいですか?」と尋ねると、僕のカメラを見て「良かったらカメラを付けて撮影して下さい」と勧めてくれた。願ってもない話なので是非とお願いすると、その方は三脚にレンズを付けたまま自分のボディをくるくると回転させてはずし三脚ごとレンズを貸してくれた。僕は自分のズームレンズをはずし、その方と交換した。三脚に固定されたレンズにボディを付けようとしたがそれが上手くいかずずいぶん手こずった。

タクマーレンズ
アサヒペンタックスはプラクチカマウントというスクリューマウントで、レンズを交換するにはボディを平らなところに置き、レンズ全体を掴んで一瞬力を入れて緩めその後3回転半回しレンズをはずす。付けるにはやはり平らなところにボディを置きレンズを垂直に立て3回半回し最後に力を入れて締め付ける。構造的にはネジを切ってあるだけなのでシンプルで、経年変化でマウントにガタがくることがない事が売りであった。他社のカメラは全て1/4回転ほどで交換できるバヨネットマウントで交換がスピーディーなことが売りであった。

500ミリの引き寄せ効果には感動し、鶴をアップで撮影することが出来たことには感謝しているのだが、その時スクリューマウントではとっさの時にすばやくレンズ交換が出来ないことに気付いた。それまでは標準レンズと望遠ズームレンズの2本しか選択肢がないので、目的に合わせてどちらかのレンズしか使っていなかった。レンズ交換に手間取ったことがこれ以上交換レンズは増やさず、何れカメラを買い換えようと決断をした瞬間でもあった。

結局、高校3年間は「ペンタックスSP」を使い続け、28ミリが僕の標準レンズになった。この3年間にコンテストに応募して賞品をもらったり、数々の傑作をモノにし、カメラマンへの道を志すことになる。
今思えば高校生活で有意義だったのは写真部の活動のみで、学校は面白くなく授業もつまらない、しかも女子がいないのに3年間1日も休まず皆勤賞を取れたのも写真部のおかげだと思う。
進学は漠然と報道関係に進める学科と思っていたが、3年生になって「写真学科」がある大学があることを知りそれを目指すことになった。

そのとき父に「浪人しないで大学に一発合格できたら、なんか入学祝いを買ってやる。だからがんばって勉強しろ!」と言われた。
「入学祝っていくらぐらい?」
「10万円!」
それが後に「ニコンF2フォトミック」になった。

そういえば「丹頂の里」の丹頂鶴の写真は1年の文化祭に全紙に引き伸ばして展示され、中学の時ひそかに好意を抱いていた女子が見に来てくれた。
暗室の酸っぱい臭いと共に、僕の高校時代の甘酸っぱい思い出になった。

2011年8月27日土曜日

ポラロイドの話

現代のポラロイド「ポゴ」
ポラロイドです。普段は略して「ポラ」と言ってます。
「ポラロイド」は商品名なので正しくは「インスタント写真」と言いますが、ポラロイドがインスタント写真の代名詞になってしまいました。
皆さんご存じなのはシャッターを押すと『ジーッ』とカメラの下から写真が出てきてしばらくすると白い写真面からじわじわと画像が浮かび上がってくるヤツ。
「非剥離法拡散転写法写真」が正式名称。
今回出てくるのはこいつではなく「拡散転写法写真」または「ピールアパート方式」のポラロイドの話。

フィルムカメラ時代の話。
プロカメラマンは本番撮影の前に「ポラを切る」のが普通でした(過去形)。もちろん戦場カメラマンや追っかけ取材撮影の時などは別です。
僕がプロになって最初のころに使っていたカメラはニコンだったので、ポラが切れない。なので、ハッセルブラッドを持ち歩いてハッセルでポラを切り、ニコンで本番撮影をしていた。

ハッセルとポラ
何故ポラを切るのか。フレーミング、ライティング、露出のチェック。
雑誌の場合編集者、広告の場合デザイナーやアートディレクターにポラでフレーミングをチェックしてもらって、文字や文章のレイアウトを確認、さらに自分でライティングや明るさをチェックする。そして人物撮影の時に重要なのが、モデルにポラを見せてコミュニケーションをとる。モデルは自分がどんな風に写っているのか、どこまで写っているのかがわからない。そこで撮ったポラをモデルに見せ、動きや表情を指示するのだ。それまでは「少し足を開き気味にして腰ふって・・・」「このカメラマン何言ってんだ?エロおやじか?」と思われていたのが「ほらね!こうするとスカートのスソが揺れてきれいでしょっ!」「ほんと〜だ!カメラマンの言うことちゃんと聞こ〜うっ」となる。

なつかし〜い。コンタックスで撮ったポラ。
そんなコミュニケーションツールとしても重要なポラだが、ニコンやキヤノンからは正式にはポラカメラが出ていない。初期のころはハッセルでポラを切っていたのだが、コンタックスからポラ専用カメラが発売になった。当たり前の話だが、コンタックスのカメラにニコンのレンズは使えない。僕は35mmカメラは当時ニコンしか使っていなかったので、銀座にある田鹿写真機研究所でコンタックスポラカメラをニコンマウントに改造してもらった。これで撮影レンズと同じレンズでポラが切れる。大変重宝したのだが、いかんせんコンタックスボディにニッコール、自動絞りが連動しない。詳しくは書かないが、やっぱちょっと不便。しばらく使っていたが、メインボディをニコンF3からF4に代えたときにF3ボディがあまったので、アメリカ製「NPCプロバックII」をF3の裏蓋を交換して取り付けて専用ポラカメラにした。これだと1枚のポラフィルムで2枚の写真が撮れるので又々便利になった。しかし、35mmカメラでポラを撮るとフィルムと同じ大きさ24×36mmサイズの小さな画面なのでちょっと見にくく、微妙なチェックは出来ない。
ニコンF3にNPC PROBACK

そうこうしているうちに撮影依頼がポスターであったり、雑誌の表紙になり中判カメラでの撮影が増えてきた。
中判カメラ=ブローニーフィルムを使うカメラはポラを切るのが当たり前。ハッセル、コンタックス645、ゼンザブロニカ、どのカメラもポラバックが用意されていてフィルムマガジンと交換することでポラが切れる。画面も大きくポラも見やすい。僕はマミヤ645Pro、後にマミヤ645AFDを使っていた。

マミヤ645AFD と ポラバック
ピールアパート方式のポラは、シャッターを切った後、白タブを一気に引き抜き、次に黒タブを一定速度で引き抜く。ここから時間を計って約1分半待って写真とネガを引きはがすのだが、この時点では写真の表面にまだ薬品がついていて乾いていない。不注意に触ると画像が削れてしまう。そこでポラの角を持ってあおぐようにして乾かすのだ。あんまり効き目はない。この動作が癖になってしまうと『ジーッ』と出てくる剥がさないタイプのポラまでヒラヒラと振って乾かそうとしてしまう。これこそホントに意味がない。

5年位前からブローニーの仕事もデジタル撮影に変わっていった。デジタルの場合ポラでやっていた「フレーミング、ライティング、露出のチェック」がカメラのモニターですぐに見ることが出来る。便利だ。失敗してもすぐにわかる。もうポラは必要ない。
と、思っていた。

  前回まで645で撮影していたが、今回からデジタルで撮影、となった写真集撮影でのこと。「ポラ撮って下さい」とアートディレクター氏。「えっ!だってデジタルだよ。モニターですぐ確認できますよ。ほらっ!」と僕。「でも、デザイナーに写真を見せなきゃいけないし全体の構成を決めるのにポラが要る。」確かに1週間撮影を続けているうちに最初の方でどんなカットを撮影をしたか忘れてしまう。フィルムの時はカット毎にポラを切ってメークルームの壁に貼り付けてみんなで確認しながら撮影していた。カメラマンとアートディレクターは現場で撮影しながら確認できるが、全員で情報共有するにはポラが要る。その日撮影が終わってから、Yドバシカメラに直行してHPのバッテリー駆動可能のコンパクトフォトプリンターを買って翌日から対応した。
HP フォトスマートA628 現在は製造終了。


「はいっ!じゃ〜ポラ撮ります。『カシャ!』 OK! 1分待ってね〜」アシスタント「ポラ待ちで〜ス」僕「メイクさんこの間にメイクのなおし」
フィルム時代と同じリズムで撮影しているが、もちろんポラは撮っていない。1分待ちと言っているが実際は90秒、ポラと同じ待ち時間でLサイズのプリントが出来る。
もちろん出来たプリントをモデルに見せ「すごくきれい!いいじゃん、いいじゃんこんな感じで本番よろしく・・・」

残念ながら本家のポラロイド社はその後経営破綻をしてしまった。ピールアパート式のポラフィルムはフジフィルムからFPシリーズとして出ているので今でもポラは切れる。そもそもこのフジのFPシリーズの方が本家のポラロイドより色がいい。FP-100Cはフィルムの色に近いので「ポラ切るよ!」と言いつつ「フジ」を切っていて、本家のポラは使っていなかった。もしかしたらそのせいで本家のポラロイド社が傾いてしまったのかもしれない。
その後ポラロイド社は経営がいくつか変わり現在もそのブランド名を残している。
2008年、年末。その新規ポラロイド社からモバイルプリンター「Polaroid PoGo」(ポゴ)が発売になった。ポラロイドらしい、他社とは違う新しい方式のコンパクトプリンターだ。大きさもHPのインクジェットプリンターと比べても圧倒的に小さい。
HP A628とポラロイド PoGo。白い紙が用紙サイズ。

「これでまたポラが切れるかも・・・」とすぐにアメリカのサイトから注文した。送料込みで10000円ほど。HPのプリンターの場合、テスト撮影後カメラからCFカードを抜きプリンターにセット、写真を選んでプリントボタンを押す。PoGoだと、カメラに直接PoGoのプリンターケーブルをつないでカメラモニターのプリントボタンを押す。待つこと1分。こりゃ便利かと思ったが、インクジェットプリンターのきれいなプリントに慣れてしまうと色が悪く画質も落ちる。バッテリーの持ちが悪く10枚くらいしかプリントが出来ない(HPは40〜50枚可能)。充電するのに3時間、予備の電池は売っていない。残念ながら仕事には使えなかった。


もともと「ポラ」といえば色が悪いのが当たり前。
「これピンク出てないけど大丈夫?」「これポラですから。ポラはピンクでないんですよ。本番はちゃんと写ってますから。」
「これ窓の外黒くなってるけど?」「これポラですから。ポラは3段以上明るいと白いところが黒くなっちゃうんです。本番はちゃんと写ってますから。」
「これ表情良くないけど・・・」「これポラですから・・・」
「背景ボケてないけど・・・」「・・・ぽらですから・・・」
と、ポラの再現性の悪さには慣れっこになっていたのだが・・・。

バッテリーの持ちが悪い「Polaroid PoGo」だが、何しろ小さい。iPhoneを倍の厚さにした感じ?ポラなど必要のない取材撮影にもカメラバッグの隅に入れて持ち歩いてコミュニケーションツールとしての出番に備えている。
D3とポゴ。ポゴは小さい。