2011年9月23日金曜日

僕の沖縄、ニコンF2と・・・。

ニコンF2フォトミックAs ファインダーは後になって替えたもの。
「西表島に行こうと思うんだ。」
「い・り・お・も・て・島? 何処にあるんだそれ?」階段教室の下の席から康平は上半身を後ろにひねって僕にたずねてきた。
「沖縄だよ。それも、沖縄本島から船で17時間かけて石垣島まで行き、そこからまた船で1時間行くんだ。」
午前中の授業が終わりほかの学生たちがぞろぞろと教室を出て行く中、僕は康平に夏休みの計画を話した。
「しかもまだ未開のジャングル状態らしいんだ。日本にもそんなところがあったんだな。」
康平は興味を持った様子でぐるりと後ろを振り返り
「いいな、西表島」
「だろ!いこうぜ西表島」

僕が最初に西表島を知ったのはそのときから半年ほど前、高校3年生も終わりに近い頃だった。各教室に一枚ずつ大きな日本地図が配られ教室の後ろに貼り出された。 先生の説明によると沖縄がアメリカから返還され日本に復帰することになった。それまでは日本地図に描き込まれていなかったのが晴れて、堂々と日本地図に描き込まれた。 それで新しい日本の地図が各教室に貼られたのだ。おそらくニュースや新聞でさんざん取り上げられていたと思うが興味がわかなかったのが、地図を見たとたん俄然興味がわいてきた。沖縄の位置を見てみると東京とグアムのちょうど中間の緯度で亜熱帯、今まではパスポートが必要だったが本土復帰すればパスポート不要。それまでも最果て志向で日本最北端-宗谷岬と、最東端-納沙布岬はすでに行っている。沖縄に行けば最西端、最南端が制覇できると思いそれから色々と調べ始めた。
沖縄は戦後27年にわたってアメリカの統治下にあったので全員が英語でしゃべっているのではないか?と言う疑問はどうやらそうではないことが解り、最西端、最南端は与那国島と波照間島で、与那国島に行く船は週に2便しかないことが解った。そして興味がわいたのが沖縄本島に次ぎ2番目に大きいにもかかわらず、ほとんどが熱帯系ジャングルでいまだに未開の地である西表島だった。

写真学科の学生になった僕は大学1年の8月、同級生の康平と二人で沖縄撮影旅行に出かけた。康平は夏休みに入っていったん実家の金沢に帰り、金沢から大阪、大阪からフェリーに乗って38時間かけて那覇に入った。僕は康平が那覇に着く時間に合わせ羽田から空路那覇に入り那覇空港で合流した。機内で少し頭痛がして、何とか早く直らないかと気をもんでいた僕は機内を出てタラップを降りはじめて、暑さで目眩がした。8月の亜熱帯沖縄の暑さは想像以上で、ターミナルビルに入るまでの間に頭痛が吹き飛んでいた。ターミナルビルで荷物を受け取って出口に向かうと、ガラス張りの向こうで康平が手を振っている姿が目に入った。

僕らは空港から歩いて市内に向かった。先ずビックリしたのは車が右側を走っていることだった。滑走路に沿ってしばらく歩いているとフェンスの向こう側に戦闘機が複数駐機していた。那覇空港は軍用空港でもあり旅客機とは違う戦闘機の爆音に緊張感が高まった。さらに進むと「Bank of America」の大きな看板があり、まるで外国にきたような雰囲気だった。僕と康平は沖縄に来たからにはめいっぱい沖縄を満喫しようと、何かを選ぶときは出来るだけ沖縄らしいものを選ぼうと決めていた。空港から3~40分歩くと、僕らがその日泊まる沖縄ユースホステルがある奥武山公園にさしかかった。ここは運動場や競技場がある大きな公園で、その奥にユースホステルがある。入り口を入ったところにジューススタンドがありそこで小休止をした。飲物を選んでいると見慣れないものがある。
「『ルートビア』ってなんですか?」
「コーラみたいなものだけど少し薬草くさいの、アルコールは入ってないよ」
僕らは迷わずルートビアを選び、一口飲んで卒倒した。サロンパスが口いっぱいに広がったようで、早速沖縄の洗礼を受けた。
ユースホステルに荷物を置くと、僕らはまた歩いて那覇市内を目指した。橋を渡るとすぐに国際通りになる。那覇のメインストリート国際通りは大きなホテルやデパートがあり、そこを3~40分歩き目指す平和通りに着いた。平和通りは東京で言うとアメ横のような通りで、雑多な店が所狭しと並んでいる。通りに入り目についたのは、乾燥した黒い蛇がたくさんぶら下がっていることだった。聞くと蛇ではなくウミヘビを乾燥させたもので滋養強壮用に薬膳料理などに使うものだそうだ。黒蛇の間をぬって奥に入り、何人もに尋ねながらやっと探し当てたのは「米軍放出品」を扱う店だ。
僕らが今回の10日程の旅で宿に泊まるのはこの日のユースホステルと石垣島でのユースホステル1泊の計2泊で、それ以外はテントに泊まる計画だった。そのテントを米軍放出品店で確保しなければ明日から泊まるところがない。幸い大きな店で放出品テントを手に入れることが出来た。康平は子供の頃ボーイスカウトに入っていてキャンプは慣れている。テントに関しては全面的に康平にまかせた。

翌朝僕らはビーチを目指した。目的の西表島に行く前にテントの具合を確かめたかったのだ。未開のジャングル西表で、もし装備に不具合が出た場合何も調達できないことを考えて、ビーチに1泊し装備のチェックをする算段だ。那覇バスターミナルからバスに乗り、目指したのは恩納村のムーンビーチだった。那覇から小一時間だったろうか、旧1号線をひた走り、普天間飛行場、嘉手納基地を過ぎムーンビーチでバスを降りた。ビーチならどこでもよかったのだが、テレビか何かで聞いたことがあるという理由でムーンビーチを選んだ。ところが着いてみるとビーチへの入場が有料だった。すぐに諦めてさらに先に進むとタイガービーチに着いた。ここも有料だ。さらに進むと右手にやたら派手な、しかも手書きで書かれた看板の、「万国百貨店」という店があり「米軍放出品」と書いてある。その真ん前が冨着(ふちゃく)ビーチで、入り口には入場料の表示はない。ちょっといかがわしい感じの「万国百貨店」にも興味があり、今夜の宿泊先は冨着ビーチに決まった。冨着ビーチは大きなリゾートホテルがなく人も比較的少なく、しかし僕らは遠慮がちになるべく隅の方を選びその日の寝床を決めた。グランドシートを引き、支柱を立てテントを張り、ペグを打って固定した。
テントの中に荷物を放り込むとカメラと財布を持って、なんだか怪しい「万国百貨店」に行ってみた。土産物や輸入食料、そして米軍放出品があった。その中から「Cレーション」と呼ばれる野戦食を非常食として、金属製の弾薬ケースをカメラバッグとして購入した。
左のレンズは35ミリ。28ミリはその後手放してしまった。
僕らは二人とも写真学生だ。目的の一番に写真撮影があった。僕は入学祝いに父に買ってもらった「ニコンF2フォトミック、ニッコール50ミリF2」ペンタックスSPを下取りに出して購入した「ニッコール28ミリF3.5」「ニッコール105ミリF2.5」そして長巻フィルムを自分でカットして詰めたTri-Xを20本程、以上が機材の全てだ。これら一式が弾薬ケースに収まり沖縄らしい雰囲気になった。康平もおやじさんから譲り受けた「ニコンF」を弾薬ケースに収めた。

僕らはその日、驚きの連続だった。冨着ビーチはどこまで行っても遠浅で、いくら沖に向かって進んでも胸より深くならない。しかも水が完全に透明で胸まで浸かっても自分の足がしっかり見える。こんなに透明でサラッとしていて塩が入ってるとは思えないと、なめてみると間違いなく海水だった。湘南の海の深緑色をしてちょっととろっとした海水が海だと思っていた僕の目からウロコが剥がれ落ちた。夜になってあたりは完全に真っ暗になり、空を見上げて驚いた。星が怖い程たくさんある。本当に空から星が降ってくるようだった。その中でひときわ明るい帯、それが天の川だと気付いてまた驚いた。僕は生まれて18年間本当の海と空を見ていなかったことに気付いた。

翌日、僕らを乗せた船は那覇泊港から石垣島に向けて出航した。およそ17時間かけて石垣島に着き、船を乗り継ぎ西表島に着いた。西表島は北部に船浦港、南部に仲間港があり南北を繋ぐ道はない。僕らは仲間川河口にある仲間港にたどり着いた。港にはコンクリート造りの事務所があって観光案内所を兼ねている。そばに壊れた大型バスが止めてありそこが船を待つ人の待合所になっていた。到着した船からは僕らの他に数人の乗客が降りたがすぐにいなくなり僕ら二人だけが港に残った。辺りには食堂も店も何もない。案内所には男の人が1人いて、翌日に行く「バスツアー」も翌々日に行く「クルーズ」も全て切り盛りしている。その唯一頼りになる案内所でキャンプをしてもよい場所、それと食堂を尋ねた。歩いていける範囲でキャンプが出来る場所として勧められた場所は港から3〜400メートル離れたところにあり、奥の方にほこらがある神社のような場所の前の広場だった。土は軟らかく草が生えていて寝心地が良さそうな場所を選んでテントを張った。早速カメラを携えて、港、海岸を撮影し、昼食をとる食堂を探した。紹介された辺りを探しても食堂らしい店がない。よくよく探してみると看板ではないが表札程度の大きさで食堂と書いてある民家があり声をかけると家人が現れた。中に入り品書きを出されやっと昼食にありつくことが出来た。店とは言えない民家で、テーブルが2席程あり、品書きには4つ程のメニューが書いてあったと思う。
その後仲間川、仲間崎などを撮影して歩き、さて夕食をどうしようと考えた。半日うろついたが食堂は他にない。また同じ店で夕飯はないと思い、食料品店を探したがそれもない。唯一あった雑貨屋でカップヌードルを見つけよろこんで購入した。
「お湯いただけますか?」
と聞いてみたがお湯はなかった。さてどうやってお湯なしでカップヌードルを食べるか?康平が持ってきた水筒には水が入っている。シェラカップが1個。僕らは海岸で薪になる木を探し、石を並べてコンロを作りお湯を沸かし始めた。水はたっぷりあるが問題は1回に沸かせる量は一人分、康平は1回目を僕に譲ってくれた。火力が弱く沸かすのに10分以上かかっただろうか、僕が食べ始めて、康平の分のお湯を沸かし始めたが康平は待ちきれなかったのか
「結構いけるぜ」
と乾燥したままの海老と麺を食べていた。
その日は歩き疲れて、暗くなるとすぐにテントに潜り込んで寝込んでしまった。
激しい雨音で目が覚めた。
時間は何時かわからない。南国特有のスコールなのかどうかわからないがとにかく激しい。すでに地面に触れていた側はびしょ濡れ、上からも雨漏りがしている。このままでは寝るどころではない。避難できるところは・・・港のバス。康平と意見が一致し、バスまで走って避難することにした。荷物は全部持っていけないので、着替えとタオル、それとカメラを持って行くことにした。早々に準備をして道順をお互いに確認し、
「行くぞっ!」
かけ声と共にテントを飛び出した。土砂降りの上、辺りは真っ暗だ。走って広場から道路に出てしばらく走ると康平が来ていない。
「康平!」
と叫びながら少し戻ると、康平は広場と道路の間の溝にはまっていた。
「メガネを落とした!」
康平が持っていた荷物を受け取り、懐中電灯で溝の方を照らす。康平は溝に手を突っ込んでメガネを探した。
「あった!」
「よし走ろう!」
しばらく走ると港の案内所の自動販売機が明るくあたりを照らしているのが見えた。真っ暗闇の雨の中、自動販売機に照らされてバスがうっすらと浮かび上がっていた。自動販売機に向かって走り、バスのドアを押しあけて中に飛び込んだ。ずぶぬれになりながらも避難場所が思いのほか快適でほっとした。タオルにくるんで抱え込んできた着替はそれほど濡れていない。カメラは防水弾薬ケースのおかげで無事だった。濡れた服をつり革に吊るして干した。僕らはほっとして、今走ってきた間の出来事をお互いに笑いながら話し、しばらくして座席シートの上で眠り込んだ。

翌日はすっかり晴れて、僕らは午前中「島内観光バスツアー」に参加、ハイエースは二人で貸し切りだった。ツアーから戻って昼食をどうするか考えた。例の食堂で昼を食べると、夜もまた同じ食堂で限られたメニューを食べなくてはならない。1日2回、毎日同じ食堂は出来れば避けたい。食堂では夕食を食べ、昼食は別に確保する事を考えたが、食料品店はなく、雑貨屋には缶詰などしか食料は売っていない。バスツアーで走っている間は、いたるところにパイナップル畑があるのだが売っている店がない。港の案内所で聞いてみる事にした。
「すいませんパイナップルが欲しいんですけどどこで買えますか?」
「えっ?パイナップル?畑に行けばあるでしょう?」
「いえ、欲しいんです。買いたいんです。」
「パイナップルが欲しい?だったら港にいっぱい積んであるでしょう?誰かいたら誰かに、誰もいなかったらパイナップルに断って持って行きなさい。」
どうやらこの島ではパイナップルは売っていないらしい。
僕らはさっそく港に行き、パイナップルに断って一人2個づつ頂戴した。
浜に行き、岩の上にパイナップルを置き康平が持ってきたナイフでさばいて1個づつ贅沢に食した。その後僕らは、ナイフさえ持っていればこの島で空腹になることも、喉が渇くこともなくなった。
その夜は、スコールがきたら逃げる用意をして、テントで眠りについた。

翌日も晴れ、「仲間川ジャングルクルーズ」に出かけた。小さなエンジン付ボートで、マングローブの間を抜け上流に向かい探検気分を味わいながらたくさんの写真を撮影した。
クルーズから戻りパイナップルで昼食をとりいったんテントに戻ると、僕らがテントを張っている広場に二張りテントが増えていた。聞くと大学の探検部グループで、島の反対側、船浦港に上陸し浦内川を遡りマリュード滝、カンピラ滝を通り仲間川上流から下って仲間港にたどり着いたそうだ。ここで1泊した後、与那国島に向かうとのことだった。見ると彼らのテントのまわりには白い粉がまいてある。
「あの粉はなんですか?」
「あれはハブよけの硫黄です。」
「ハブよけ?」
「夜寝ている間にテントにハブが入らないようにです。ハブは硫黄が嫌いなので・・、なければ枯れ葉をまいてもいいんです。ハブが通るとカサカサ音がしますから、起きて追っ払えばいいんです。」
「硫黄はどこで買えますか?」
「薬局で買えますが・・・、良かったら使って下さい。この後行く与那国島も宮古島もハブが生息していないので。」
「さすが探検部。」
僕らが夕食を例の食堂で食べてテントに戻った頃には、彼らはもう寝ていたようで、翌朝起きたときにはすでにテントも彼らの姿もなかった。

その日の午後、僕らも西表島を離れ石垣島に戻り、ユースホステルに1泊した後、17時間かけて本島に戻った。

その後、康平はまた船に乗り大阪経由で実家に戻り、僕は1人テントでもう1泊してから次の日の朝、空路家に帰る。最後の日、康平の乗った船を見送った後、僕はまた冨着ビーチに向かった。午後の冨着ビーチは人影もまばらだった。
今回の撮影旅行では、自分にとっての標準レンズである28ミリを付けたままで、50ミリ、105ミリに交換することはほとんどなかった。ビーチで50ミリや105ミリを付けてニコンF2フォトミックで撮影していると、高校生ぐらいの4人グループの女の子がわいわい楽しそうに話をしている。3人は水着の上にTシャツを着ていて、そのTシャツのまま海に入っている。沖縄の女の子達は焼けるのを嫌いTシャツを着たまま泳ぐと聞いたことがあった。が、4人の内1人だけオレンジ色っぽい花柄のビキニを着ており、Tシャツを着ていない。海から上がってもビキニのままで3人の話をニコニコ聞いている。とてもかわいく見えたので思い切って声をかけてみた。
「あの〜すいません。僕、学校で写真の勉強をしているものなんですが、モデルになってもらえませんか?」
「あ、この子耳が聞こえないの。」
「あっ、そ〜なんですか。じゃあ聞いてもらえませんか?モデルやってもらえないか?すぐ終わりますから・・」
隣にいた女の子が「しゃしんの〜モデルをやってもらえませんか?って」
手話ではなく身振りを加えてゆっくりと話しかけると、
「わたし?」と聞き返しコクリとうなずいた。

写真学科に入学して4ヶ月あまり。ほとんど風景や、スナップばかり撮影していてモデル撮影などはしたこともない。
ニッコール105ミリ F2.5 旧タイプ
初めての水着撮影は、使い慣れない望遠レンズ105ミリで、絞りを開け目にして背景をぼかしたり、また28ミリを付けて背景の海をいかした撮り方など、知っている技術を駆使して撮影した。友達3人が興味津々見守る中、30分程撮影した。「ありがとう」とゆっくり喋ってみたが「なに?」と聞き返されたので、手のひらをとって「あ・り・が・と・う」とひらがなで書いてみた。意味は伝わったようで、彼女は「ありがとう」と言葉を返し、ぺこりとお辞儀をした。
待っていた3人に冷やかされるように肩をたたかれながら、彼女たちは4人で楽しそうに帰って行った。僕はその後ろ姿を見ていた。少し進んだ後、一瞬彼女だけが振り返り、笑顔でこちらに手を振って去っていった。

その夜、僕は砂浜にテントを敷き、その上に寝転んだままで一晩を過ごした。星は夜空一面に広がってきらきらと瞬いていた。ずっと目を開いたまま星空を見ていると、いくつかの流れ星が天空を横切った。

18歳の若者2人が沖縄で受けた影響は少なくなかった。
ジャーナリストを目指していた康平は、何か思うことがあったのだろう。1年生が終了した時点で大学を中退した。東京で1年間浪人した後、沖縄の大学に入り直し、沖縄で大学を卒業。高校の国語科教師になった。
僕は卒業後ファッションカメラマンのアシスタントをして、のちにフリーのカメラマンになった。
女性ファッション誌では5月末に発売する7月号で必ず水着特集が組まれる。4月になると海開きをする暖かい沖縄でよく水着ファッションの撮影をする。僕はカメラマンになって2年目から女性誌のファッション撮影を担当し、それから4〜5年間、毎年のように沖縄で水着撮影をした。最初に沖縄で仕事をしたときのカメラはあのときの「ニコンF2フォトミック」だった。



※現在、本島から石垣島への船の定期航路はなく、航空路線に変わっている。
※また、西表島も現在は南北を結ぶ道路が出来ている。パイナップルも有料だ。

2011年9月16日金曜日

彼女のバイクとニコンD3と

 三紗子は右手で喉もとのバックルを外した。
「カチッ」という乾いた音が地下駐車場に響いた。
中指を引っ張り、左手続いて右手のグローブを外すとアプリリアのタンクの上に置き、両手でフルフェースのヘルメットを脱いだ。
くるりと巻いてヘルメットに納めていた髪が「クルン」と踊るように廻り背中で跳ねた。肩甲骨の下まである長い髪を三紗子は左手で掻き上げると、左の鎖骨部分にあるジッパーを右下に向かって斜めに一気に下げ、黒いライダースジャケットの前をあらわにした。
ヘルメットをバイクのミラーに無造作に掛けると、頭を左右に振りながらエレベーターに乗った。
2階のボタンを押し、エレベーターが動き出すのに合わせるかのように左右の肩を揺らしライダースジャケットを脱いだ。エレベーターの天井のダウンライトが三紗子の真っ白いTシャツに反射してあたりを照らした。黒革のパンツのコインポケットから鍵を取り出しエレベーターをおりた。

三紗子の家は元麻布の暗闇坂を上がった住宅街にある3階建ての一軒家だ。地下が駐車場、1階がスタジオ、2階、3階が住まいになっている。
元は俳優をやっていた叔父夫婦の住まいだった。6年前叔父が亡くなり、一人暮らしになった叔母が寂しがるので一緒に住むことを考えていたが、それもかなわぬうち叔母も2年前に後を追うように逝ってしまった。その後、叔父が若い俳優を集めては芝居の稽古をしていた1階の稽古場を撮影スタジオに改装し、2階に一人で住んでいる。3階はもともと叔父がインタビューを受けたりするために作った応接室だったが、今は叔父の俳優時代の資料をまとめて保管してある。

冷蔵庫を開け、中に頭を突っ込むような奇妙なしぐさをしてペットボトルのクリスタルガイザーを取り出した。リモコンでボーズのウェーブレディオをオンにして、革のパンツを脱ぎ、Tシャツとショーツでソファーに転がっているとしばらくしてインターホンが鳴った。
「片岡ですッ!今駐車場に車止めました」
「片岡クン、おつかれ~!悪いけどカメラバッグだけスタジオに入れといてくれる。そしたらあがって下さい」
「はい。鍵はドアポストに入れときますッ」
ロケ撮終了後、三紗子はバイクで先に帰宅し、アシスタントの片岡が車に機材を積んで戻ったのだ。
しばらくしてドアポストにカチャリと鍵が落ちる音を聞き、三紗子はTシャツとショーツを脱ぎシャワールームに入った。

午前2時をまわった頃、三紗子はソファーで目を覚ました。シャワーを浴びた後しばらく本を読んでいたが、ソファーに横になりジョン・コルトレーンの say it を聞いているうちに眠り込んでしまったのだ。ソファーに横たわって4分と経たないうちに眠りに落ちてしまった。
「いけない、セレクトしなきゃ・・・」
と小声でつぶやくと、三紗子は誕生日にもらったピンク色の熊の足の形をしたスリッパを履き階段で1階に下りた。
鍵を開けドアを開けると、真っ暗なスタジオに緑色の人が走る格好をした蛍光灯だけが点いていた。その光を頼りに右の壁をまさぐってスイッチを入れた。7m×9mのスタジオ全体が蛍光灯で浮かび上がった。入って右側の天井から、電動バトンがぶら下がっておりサベージが掛けてある。左側の壁際にパソコンテーブルがあり、その横の60cm角のサイコロの上にアシスタントの片岡が運び込んだカメラバッグが置いてあった。
ベージュ色したドンケF-2のフックを外しカメラストラップを引っ張り上げ、中からニコンD3を取り出した。キーボードを中指の爪で軽くたたくと、27インチiMacが、HDDがまわる音と共にスリープから目覚めた。ニコンD3にUSBケーブルをつないでカメラのスイッチをオンにすると、Macのドックにアイコンが現れニコントランスファーが起動した。「D3」と表示されるまで1~2分かかった。「転送開始」をクリックして処理状況のバーが動き出したのを確認し、階段で再び2階に上がった。
3000枚も撮影するとMacにデータを取り込むのに10分位かかる。この間に三紗子は顔を洗い 、冷蔵庫を開け頭を突っ込むようなしぐさで中を物色した。アボガド1個と皮が少し黒ずんだバナナ2本とクリスタルガイザーが4本、後は飲みかけの赤ワインとマヨネーズが入っていた。
バナナ1本とペットボトルを下げてスタジオに戻ったが、まだニコントランスファーは転送を終了していなかった。
オーディオのスイッチを点け有線をA37に合わせた。メールをクリックして中身を確認していると、それを遮るかのようにView NX2 が起動した。データ転送が終わったのだ。ブラウザーに今日、正確には昨日撮影したモデルの写真が浮かび上がったがまだ動きが鈍い。さらにしばらく待たないと画像表示に遅れが出るのでもう一度メールをチェックして時間をつぶす。スリッパを「パタン」と床に落とし椅子の上にあぐらをかいた。下はグレーのハーフパンツ、上は黒のキャミソールの上にグレーのパーカーを着ている。黒ずんだバナナの皮をむいて傷んだ部分を避けて三口かじり、傍らのゴミ箱に捨てた。ファイヤーフォックスを立ち上げ facebook をチェックする。地球の形をしたマークの横に赤い色で4と書いてある。メッセージを開くと3年前に別れた元夫からメッセージが入っていた。

ViewNX2をあらためてみると3027枚、24カット撮影しているので、1カットにつき120枚撮影している計算になる。フィルムだったら6×6で10本分はちょっと撮りすぎだ。5本も撮れば十分だろう。デジタルになりフィルムチェンジもなく経費もかからないので、撮影枚数は確実に増えた。その代わり撮影データを全てクライアントに渡すわけにはいかないのでセレクトしなくてはならない。RAWで撮影すれば現像処理が必要なので、そこまでがカメラマンの仕事になった。三紗子の場合、撮影時にグレースケールでホワイトバランスをプリセットし、JPEGで撮影している。後処理の手間を少しでも省くためだ。それでも5時間かけて撮影した場合、全カットを見てセレクトし若干の調整を加えるのに約5時間かかる。三紗子はこれからそのセレクト処理をしなくてはならない。
先ず1回、全カットを見ながら目つぶりなど明らかに使えないコマをゴミ箱に入れる。次に画面を拡大しピント外れや表情をチェック、さらに同じ表情同じポーズのコマを省く、3000枚の写真を最低1往復半チェックして約半分に減らさなくてはならない。撮影の後は眼精疲労が激しくセレクトは結構辛い作業になる。

三紗子はMacの前であぐらをかき、左手でキーボードをたたき右手でマウスを操り、だめカットをゴミ箱に入れる。時々首を回したり、腕を回したりしながらだらだらとセレクトをしているとSkypeコール音が鳴った。突然の着信音に一瞬ビックリした。Skype名を見ると facebook にメッセージが入っていた元夫だ。
「今、朝?夜?」受話器のアイコンをクリックすると元夫の声がした。
「今何時?」
「 ん〜と 4時47分」と元夫。
「さっき4時間寝たから朝かな・・」同じ4:47でも寝て起きていたら朝、まだ寝てなかったら夜だ。
「facebookにメッセージ入れたけど見た?」
「 ん〜見たけど無視した。」
「なんだよ〜」
「それよかさッ、なんかD3が最近遅いんだけど何でかな?」元夫は元カメラマンで現在はアートディレクターをやっている。メカ好きで、三紗子より機材に関しては詳しい。
「ニコンD3? 遅いって、何が遅い?」
「なんか・・全部。」
「なんかじゃわかんないよ、撮影?取り込み?」
「ん〜 取り込みとか・・・ぼちぼちD3sに替えた方がいいのかな? D3sってD3とどう違うの?」
「カタログ見ないと詳しくは解らないけど、明らかなのは動画撮影機能と、高感度撮影・・どっちも三紗子には関係ないだろう?」
「撮影は早いの?」
「三紗子のD3はバッファメモリー増設してるだろ・・だったら連続撮影コマ数は変わらないと思うよ。むしろ今のままの方がいいかも・・・ あ〜もしかして、CFカードは何使ってる?あと画像記録モードは?」
「CFカード?・・16ギガ、133x・・もう1枚は8ギガ、ウルトラII」
「記録モードは?」
「それどこ?」
バッファーメモリー増設のマーク
「モニターの下の感度の横に『JPEG』て書いてないか?」
「書いてある『JPEG+JPEG』って」
「あ〜それだな・・バックアップ記録にするんだったらCF 2枚とも早いのにしないと、遅い方の影響受けるから・・連続撮影中にシャッター切れなくなることないか?」
「そ〜それ!あるっ!シャッター押しても切れないの、だいたいい〜時にそうなるんだ、時々三脚蹴飛ばしてる」
「そしたらCFカード替えな、少なくとも400倍速、出来ればエクストリームプロ、660倍速かな?その代わりめちゃくちゃ高いけど」
「え〜いくら位・・」
「1枚3万はしないだろ、2枚で5〜6万かな?カメラ替えるよりは安いだろ?」
「たっか〜い・・わかった、今度替える・・ところでさっ、お腹すいた、なんかご馳走して! 昨日さ〜ロケ終わりでサンドウィッチ食べただけでまともに夕飯食べてないの」
「えっ!今から?」
「うん!」
「朝の5時だぜ〜」
「だってfacebookに『今度ゆっくり食事でもしないか?』って書いてあったじゃ〜ン、あれ嘘か?」
「いや、嘘じゃないけど・・・」
「だったらご馳走してよ〜朝ご飯・・もうセレクト飽きちゃった! Mac動きが遅いしッ!」
「Macが遅いってハードディスクにデータため込んでるんじゃないか?ちゃんと・・」
「わかった、わかったから!なんか美味しいもの!」
「美味しいものって・・こんな時間に・・、そうだ築地!」
「築地?」
「この時間でもやってるし、美味いものいっぱいあるぞ、寿司、マグロ丼、ウニ丼・・」
「ウニ丼ッ決定!!行く行く!ウニ丼!」
「じゃあ・・行こうウニ丼! 俺は10分ででれるぞ、バイクで・・この時間なら30分かからないかな、5時半には行ける、築地。あんまり遅いと終わっちゃうぞ、店」
「わかった。10分で出る。私もバイクで行くから・・5時半築地。ひゃ〜楽しみ〜」
「着いたら携帯に電話くれ、いい店探してっから!」
「OK!  あっ! あと言っとくけど、口説いてもだめだからね」
「ば〜か!ウニ丼食いながら口説くか!切るぞ!!」

三紗子はiMacをスリープにするとスタジオの電気を消し、急いで2階に駆け上がった。

細身のストレッチデニムにデニムジャケットを着てエレベーターで地下駐車場に下りた。時計は5時20分を指していた。
赤とシルバーのアプリリアにまたがり、駐車場のシャッターのリモコンを押した。髪の毛をうしろで束ねバックミラーに掛けてあったヘルメットを手にとった。右手で髪を押さえたまま左手でヘルメットを被ろうとしたが、いったんヘルメットをタンクの上に置くとバックミラーに自分を映しメイクをチェックした。顔を左右に振って小さなミラーに右、左交互に眉とアイメイクを映し確認した。もう一度髪を束ね、長い髪をヘルメットの中に納め、喉もとのバックルを留めた。シャッターは上がりきっている。セルを回しスロットルを開けるとV型2気筒のエンジンが低く唸った。駐車場のスロープをローギアで上ると左手でクラッチをにぎったまま右手で駐車場のシャッターを閉めるリモコンボタンを押し、リモコンをデニムジャケットの胸元のポケットに突っ込んだ。シャッターが閉まるのを待たずスロットルを開けゆっくりとクラッチをつないだ。
まだ日の出前だが、暗闇坂はかなり明るくなっている。三紗子のアプリリアが咆哮をあげ、大黒坂に吸い込まれていった。
三紗子の後ろから風が追いかけていくように見えた。


 ※今回の話はフィクションです。
登場人物は実在しません。

2011年9月11日日曜日

「マミヤRZ67プロフェッショナル」の逆像呪縛    あるいは「Hasselblad」その3    または 働くカメラ「マミヤ」の変遷

どんな仕事でもそうだと思うが、仕事のランクは下から上に上がって行く。僕が言いたい「下から上」というのは「足」「腕」「頭」を使う様にランクが上がるという意味だ。
カメラマンに成り立てのころは、
「何時いつ何処どこへ行って何なにを撮ってきて下さい」といった、内容はともかく写真が必要だという使いっ走り的「足」の仕事。記事中写真としてのあつかい。
少しランクが上がると、
「こんな写真にしたいんだけど出来るかな?」「出来ますよ。ライトを加減して長玉でボカせばこうなります」といった、技術が要求される「腕」の仕事。写真中心だが文章も重要なページが多い。
もっとランクが上がると、
「今回こういうテーマなんだけど」「わかりました。じゃあ、画作りは任せて下さい」といった、アイデアやセンスが要求される「頭」の仕事。写真が全面に使われる、いわゆるグラビア写真等。
ランクが上がるに連れ写真の大きさ、あつかいも大きくなってくる。

カメラマンになってすぐ、無理して購入したハッセルブラッドだが、いっこうに中判カメラの出番はなかった。しかし、もしもそんな仕事が来てもシステムが揃っていない。当初の予算内で購入できたのは500C/Mボディと150ミリ望遠レンズのみ。仕事で本格的に使おうと思えばさらに、50ミリ広角レンズ、80ミリ標準レンズ、フィルムマガジンが2個、合計70万円ほど必要だった。日頃使っているニコンのカメラボディを新機種に替えたり、交換レンズを明るいレンズにグレードアップしたり、そんなこんなに受け取ったギャラを使っていてとてもハッセルブラッドにまで予算がまわらないでいた。ポラカメラとして使っていたハッセルだったが、1982年「コンタックスプレビュー」ポラカメラが発売され、ニコンマウントに改造し使い始めるとますますハッセルの出番はなくなっていった。そして友達の友達に貸したところ「使っていないのなら是非譲って欲しい」言われ、35万円で譲り渡した。カメラマンになって2年を過ぎたころだった。

これが基本形のRZ 110ミリ付
ハッセルブラッドを何れはシステムで揃えようと思っていたのだが、何を買うにも日本製のカメラと比べて2倍以上の高額でなかなか手が出ない。ここはステータスよりも実用性を考えて日本製中判カメラをシステムで揃えることを考えた。当時プロが使っている中判カメラは「アサヒペンタックス6×7」と「マミヤRZ67プロフェッショナル」が二大主流であった。ペンタ67は35ミリカメラを大きくした形で、手持ち撮影も可能なフィールドカメラ。RZ67は三脚にのせてじっくり撮影するスタジオカメラの位置付けだった。僕はハッセルの替わり、と考えるとペンタ67ではないと思いRZ67に決めた。予算はハッセルを売ったお金の35万円。新宿のYドバシカメラ西口本店でRZ67ボディ、110ミリ標準、180ミリ望遠レンズ、フィルムマガジン3個、ポラマガジン一式、スタジオで人物を撮影するのに十分なシステムをちょうど35万円で購入したと記憶している。当時の愛車 ホンダVF400のタンデムシートにうずたかく積み上げて縛り、後ろ手で確認しながら下北沢のアパートに持ち帰った。
このマミヤRZが僕が仕事で使った最初の中判カメラである。

180、ペンタプリズム、ワインダーを付けたRZ67。合体ロボか? 
「マミヤ」と聞いても聞き慣れない方がほとんどだと思う。昔は35ミリカメラやコンパクトカメラも作っていたが1985年に事実上倒産してからはターゲットを絞りもっぱらプロ向けの中判カメラを作り続けている。645、6×6、6×7の3サイズの中判カメラをプロカメラマンや営業写真館向けに作っていて、ハイアマチュアの使用者はいるが、一般コンシューマー向けカメラは現在も出していない。

このRZも雑誌の撮影ではなかなか出番はなかったが、しばらくしてB全ポスターの依頼を受け本格的にRZを使い始めた。
雑誌の場合はカメラマンにまかされる部分が多いが、ポスター撮影などはしっかりとレイアウトが決まっている。モデルの場所、背景の色、文字の位置、全ては事前に決まっていて、それに合わせて撮影しなくてはならない。その時はモデルは右の位置で向かって左を向き、左にキャッチコピー、下に会社名などが配置されたレイアウトだった。デザイナーが描いたラフコンテを見ながら、先ずはセットを組んでライトをセットしポラを切る。デザイナーとディレクターがそのポラを見てクライアントと相談、そんな進行状況だった。
僕はその頃は35ミリのニコンで撮影することがほとんどなので、はっきり言ってRZ67にはあまり慣れていなかった。ニコンとの違いはたくさんある。シャッターを切ったとたんファインダーは真っ暗になり、フィルムを巻き上げるまでファインダーは見えなくなる(ハッセルも一緒)。ファインダーは正面向きでなく真下を見るようにのぞき込む。大きな違いは、左右が逆さまに見えること。傾きをなおそうとしても左右の空きを調節しようとしても反対に動かしてしまう。モデルを見て、ファインダーを見ると反対に見えてしまって混乱するので、ファインダーの中に集中することにした。「モデルの背中側を減らして前側の空間をもう少し大きく取り、全体を少し引いて周りに余裕を持たせ・・・」こんな風にフレーミングを決めポラを撮る。そのポラを元にデザイナーがトリミングスケールとトレぺを使ってレイアウトを詰めて行く。順調に撮影は終了し、ラボにテスト現像を出し家に帰った。
撮影したポラは全てクライアントとデザイナーが持ち帰った。僕の手元に残ったのはラフコンテ・・・。モデルは右で左に空き・・・。こんなレイアウトで撮った記憶がない。全部モデルを左に配し、右に空きを作った。もしかして全部左右反対に撮ってしまった?いやそんなことはないファインダーが逆に映るからだ。解っていても心配になってしまい何でポラ1枚手元に残しておかなかったのか後悔した。もしかしてラフコンテを裏返しに見て本当に左右反対に撮ってしまったかも?そんなことはない。デザイナーもクライアントも確認している。でももしかして左右が逆だった場合、裏返しに製版すれば救えるか? いやそれは無理だ、服のあわせが反対になってしまうからそれは出来ない・・・。延々そんなことを考えてしまい眠れぬ夜を過ごしたが、、、翌朝ラボに行ってみれば全て取り越し苦労。問題なく左右はコンテ通りに写っていた。

仕上がりは上々で初めてのポスター撮影には十分満足できた。それまでは雑誌に写真が載っていてもすごく満足出来たのだが、大きく印刷されたポスターが駅や街の中に張り出されるのはカメラマン冥利に尽きる喜びだった。

その後「マミヤRZ67プロフェッショナル」の出番は徐々に増え50ミリ広角レンズ、250ミリ望遠レンズなどと左右が正像に見えるプリズムファインダーを購入し「左右逆像」の呪縛からは解き放たれた。

RZ67と645AFD
だんだんと写真のあつかいが大きくなり巻頭グラビアを依頼されるようになると1枚の写真がページいっぱいに伸ばされて使われるようになる。そうなると35ミリカメラよりブローニーフィルムを使った中判カメラで撮影した方が画質的には圧倒的に有利だ。しかし、マミヤRZ67は手持ちでロケで撮影するような万能カメラではない。フィルムは同じブローニーフィルムだがサイズが一回り小さい645カメラを検討した。これも当時の主流は「ペンタックス645」「マミヤ645」の2機種だった。たぶんペンタ645を使っているプロの方が多かったと思うが僕はマミヤ645を選んだ。理由はポラが切れるから。ペンタックスはプロ用カメラであるにもかかわらず67も645もポラが撮れない。その方がメカ的にシンプルになったりコンパクトに仕上がったりのメリットはあると思うが仕事上はポラは必須だ。そんな理由から「マミヤM645スーパー」を2台購入しグラビア撮影に使い始めた。
初めてロケで使ったのが鎌倉にある日本庭園でロケをした新人女優さんの撮影だった。庭園で撮影しているときは気にならなかったのだが、和室の室内で撮影し始めて音の大きさに驚いた。ニコンだったら「カシャ!ウィン(シャッター音と巻き上げ音)」程度の音だがマミヤ645は「ガシャンッ!ギャーーッ!!」ととてつもなく響く。新人女優さんに「元気のいいカメラですね」とほめられた。
このへんがペンタ645との違いなのかと、ちょっと後悔した瞬間でもあった。

645一式をバッグから出した。レンズは5本しか写っていない。
しかし音はさておき、手持ち撮影も可能でブローニーフィルム1本で15枚撮影でき(67は10枚)、ポラも撮れる。あつかいの大きいページの仕事は645で撮影するようになり、だんだん取材モノは35ミリそれ以外は645がメインになっていった。1992年にモデルチェンジした「マミヤ645PRO」は動きも滑らか、音も静かになったのを確認し3台導入。騒音の呪縛からも解放された。レンズは45ミリF2.8、80ミリF2.8、110ミリF2.8、120ミリF4マクロ、150ミリF2.8、210ミリF4、300ミリF5.6、55-110ミリF4.5ズームの8本になり、アシスタントなしでは運べないほどの大荷物になった。

デジタルカメラの時代になって35ミリカメラの撮影はすべてデジタルに変わっても、中判カメラの圧倒的高画質はデジタルでも追いつかずしばらくはデジタルと中判フィルムカメラを併用した。
2005年キャノンが「EOS 5D」を発売したころからプロの世界でもデジタルへの移行が始まり、2007年「ニコンD3」を導入したころから僕の仕事もデジタルに完全移行した。


現在はフィルムカメラ マミヤ645の出番はない。
しかし、2002年に僕は新たなマミヤを導入した。「マミヤ645AF D」 当初はフィルム撮影で使用していたが、フィルムバックをデジタルバックに交換するとデジタルカメラにもなる。しかもプロ用デジタルバックのフェーズワン、リーフ、両メーカーと連携しハイエンドデジタルカメラに変身可能。ニコンやキヤノンと違い、必要に応じてデジタルバックを交換すれば、カメラごと新機種に買い換えなくてもよい次世代に対応できる仕事カメラである。

フィルムバックをデジタルバックに交換すればAFデジタルカメラになる。ただし、バックだけで100万円以上する・・・(汗)。

2011年9月1日木曜日

僕の初一眼レフカメラ 「アサヒペンタックスSP」


僕の初めての一眼レフカメラ、それは「アサヒペンタックスSP」だった。

ペンタックスSP 55mm付 ¥42,000
その年 僕は埼玉県の県立高校に入学した。
中学3年生の受験勉強中、父から「公立高校に一発入学できたら、なんか入学祝いを買ってやる。だからがんばって勉強しろ!」
と言われ、自分なりにがんばって志望校に合格した。その高校は僕が入学する前年の選抜春の高校野球で甲子園で優勝していて、僕が入学した年の競争率はそれ以前より高かった。それはさておき、
「入学祝っていくらぐらい?」
「5万円!」
確か、当時の1ヶ月の小遣いが2000円。5万円はビックリするほどの大金だ。
欲しいものがいくつかあって、
グライダーのパイロットになるための航空倶楽部への入会、映画を撮影するための8ミリカメラと映写機、一眼レフカメラ、反射式天体望遠鏡・・・思い出せるだけでこんなものが自分の中で候補にあがっていた。
高校生でも入会できる学生航空連盟の入会資格を調べたら視力に関する規定があって『裸眼で0.○○以上』という規定にひっかかり入会できないことがわかった(今はこんな規定はない)。
入学後、クラブ活動で「映画部」に入部し8ミリカメラを買ってもらおうと思ったが、入学してみたら「映画部はかつてあったが、部員がいなくなり廃部になった」。
天体望遠鏡は「普通のものが見えない」と父に反対され、結局一眼レフカメラを買うことになった。

 父と一緒にその年の「日本カメラショー」を見に行き、何台もの一眼レフカメラを実際に手にとり、カメラ総合カタログをつぶさに研究し、最終的に「アサヒペンタックスSP」に決めたのだった。
当時、キヤノンFT、ニコマートFTn、ミノルタSRT101 などが候補にあがり、最後まで悩んだのがニコマートだった。ペンタックスとニコマートでは価格差はそれほどなかったが、交換レンズなど後にシステムで揃えるとニコンでは圧倒的に高くなる。さらにペンタックスならどの店で聞いても定価から10%以上値引きされるのにニコンはどこでも5%しか引かず、後々レンズを増やすことを考えてペンタックスにしたのだった。
交換レンズなくして一眼レフにあらずと、ペンタックスSPの標準レンズを50ミリF1.4よりも値段の安い55ミリF1.8付に押さえて、予算を少しオーバーしたが「サンズーム」をセットにして入学祝いとして買ってもらった。
これが僕の初めての一眼レフカメラになった。
ニコマートFTn 50mmF2付 ¥46,500
高校に入って入部した写真部は新入部員5〜6人、全部員で15名ほどいて理科室が部室、隣に暗室があってそこで初めて写真の現像、プリントを体験した。薄暗く赤い暗室電球、酸っぱい酢酸のにおいの中、現像液の中の印画紙にゆっくりと画像が浮かび上がってくるときの感動は今でも忘れてはいない。
僕の通った高校は当時男子校で(今は共学になっている。今でも何故男子校に行ったのか後悔している)、女子と交流できる機会は文化祭くらいしかなく、写真部全員が文化祭に懸けていた。1年生が文化祭で作品を展示するには3年生の審査が必要で、OKがでなければ1枚も展示できない。それこそ自分の写真が1枚も展示できないことは写真部員としては一大事で、なんとしても良い作品を撮らなくてはならない。僕は一大決心をして夏休みに北海道一周撮影旅行を敢行した。

サンズーム 定価 ¥27,000
僕の持っている機材は「アサヒペンタックスSP」、レンズは「スーパータクマー55ミリF1.8」、レンズメーカー製「サンオートズームレンズ85-210ミリF4.8」の2本しか持っていない。広大な北海道を撮影するにはどうしても広角レンズが必要だ。高校1年の夏休みの前半2週間アルバイトをし、そのアルバイト代で「スーパータクマー28ミリF3.5」を買って、夏休みの後半1人北海道に向かった。

上野発の夜行列車は最初は混んでいたが、宇都宮を過ぎたころから結構すいてきて、4人掛けのボックス席を1人で占領することが出来た。しかし、横になっても斜めになっても何とも寝心地が悪く寝たのか寝てないのかわからないうちに青森駅に到着。ここからいよいよ本格的に撮影を開始した。青函連絡船、大沼公園、積丹半島、札幌、旭川を経て釧路に到着したのは3日後くらいだっただろうか。

広い北海道を効率よく、しかも安くまわるために僕が考えたのは夜行列車での移動だった。大沼公園、積丹半島を回った後札幌に着き、夜行列車に乗って旭川に向かう。層雲峡などをまわった後、また夜行列車に乗って次の目的地に向かう。これだと宿泊代がかからず、寝ている間に移動できる。寝かたも次第になれてきて、ボックス席の椅子のクッションをはずして床に置きその上で寝ると結構眠れる。

釧路からバスに乗ってこの旅一番の目的地「丹頂の里」に着いた。記憶は定かではないのだが、何かのドキュメンタリーで見たのだと思う。丹頂鶴が一年中いてその優雅な姿を撮影できる場所が釧路湿原にある。その後テレビドラマ「池中玄太80キロ」(1980年)で紹介され有名になったが、僕が行ったころはあまり情報もなく、現地に着いて「丹頂鶴の写真が撮れるところ」を地元観光案内所で聞いてたどり着いたのだ。

ここまでは、買ったばかりの広角28ミリレンズが新鮮でレンズ交換をしていない。今でもそうだが、新しいレンズを買うと写欲が湧きどんどん写真が撮れる。この丹頂の里では北海道に来て初めて85-210ミリズームを付けて丹頂鶴を撮影していたのだが、210ミリでは望遠レンズとしてちょっと物足りなく思っていると、三脚に長玉を付けて撮影している方がいた。しかもペンタックスだった。確か500ミリだったと思うのだが、思い切って話しかけてみた。「望遠何ミリですか?覗かせてもらってもいいですか?」と尋ねると、僕のカメラを見て「良かったらカメラを付けて撮影して下さい」と勧めてくれた。願ってもない話なので是非とお願いすると、その方は三脚にレンズを付けたまま自分のボディをくるくると回転させてはずし三脚ごとレンズを貸してくれた。僕は自分のズームレンズをはずし、その方と交換した。三脚に固定されたレンズにボディを付けようとしたがそれが上手くいかずずいぶん手こずった。

タクマーレンズ
アサヒペンタックスはプラクチカマウントというスクリューマウントで、レンズを交換するにはボディを平らなところに置き、レンズ全体を掴んで一瞬力を入れて緩めその後3回転半回しレンズをはずす。付けるにはやはり平らなところにボディを置きレンズを垂直に立て3回半回し最後に力を入れて締め付ける。構造的にはネジを切ってあるだけなのでシンプルで、経年変化でマウントにガタがくることがない事が売りであった。他社のカメラは全て1/4回転ほどで交換できるバヨネットマウントで交換がスピーディーなことが売りであった。

500ミリの引き寄せ効果には感動し、鶴をアップで撮影することが出来たことには感謝しているのだが、その時スクリューマウントではとっさの時にすばやくレンズ交換が出来ないことに気付いた。それまでは標準レンズと望遠ズームレンズの2本しか選択肢がないので、目的に合わせてどちらかのレンズしか使っていなかった。レンズ交換に手間取ったことがこれ以上交換レンズは増やさず、何れカメラを買い換えようと決断をした瞬間でもあった。

結局、高校3年間は「ペンタックスSP」を使い続け、28ミリが僕の標準レンズになった。この3年間にコンテストに応募して賞品をもらったり、数々の傑作をモノにし、カメラマンへの道を志すことになる。
今思えば高校生活で有意義だったのは写真部の活動のみで、学校は面白くなく授業もつまらない、しかも女子がいないのに3年間1日も休まず皆勤賞を取れたのも写真部のおかげだと思う。
進学は漠然と報道関係に進める学科と思っていたが、3年生になって「写真学科」がある大学があることを知りそれを目指すことになった。

そのとき父に「浪人しないで大学に一発合格できたら、なんか入学祝いを買ってやる。だからがんばって勉強しろ!」と言われた。
「入学祝っていくらぐらい?」
「10万円!」
それが後に「ニコンF2フォトミック」になった。

そういえば「丹頂の里」の丹頂鶴の写真は1年の文化祭に全紙に引き伸ばして展示され、中学の時ひそかに好意を抱いていた女子が見に来てくれた。
暗室の酸っぱい臭いと共に、僕の高校時代の甘酸っぱい思い出になった。