2011年12月27日火曜日

バラードをリピート

ニコンD3






12月の午前4時。まだ外は暗い。
遥香は後部座席で軽い寝息を立てて眠っている。心なしか寝顔が微笑んでいるように見える。
僕は起こすのがかわいそうなので、そのままそっとしておくことにした。

「遥香!よかったヨ最高!先生も感心してたよ『なかなかやるな』って。クラスのみんな大盛り上がり!!
やったじゃん!」
遥香は興奮状態で友達の絶賛に対して一言も答えられず、控え室になっている体育倉庫前の地べたにへたり込んでいた。
あふれ出る汗をぬぐうのがもったいない。今の興奮にひたっていたかった。
手応えは十分あった。
いける!
そう思えた。
完全に吹っ切れた。

「進路はどうするんだ?」
「歌手になります。!」
「『音大へ進学』か」
「先生違います。音大へは行きません。東京に行って歌手になります。」

遥香は香川県の県立高校を卒業すると、「歌手」になるため東京に出てきた。
何かのオーディションに合格したわけではない。
ほとんど「あてもなく」上京した。
不安もあったが、それにまさる自信があった。
高校3年の文化祭のライブは大成功だった。
それまでも地元の繁華街での路上ライブでは手応えを感じていた。
それが体育館を満員にした文化祭ライブが決定的な自信につながった。

父は最初は反対していたが「大学に行ったつもりで4年間がんばってみろ。だめだったらとっととこっちへ帰ってこい!」と、なかば諦め状態で送り出してくれた。
卒業してすぐ母と二人で上京した。上京したといっても最初にアパートを探したのは登戸だった。あと1駅、多摩川を渡ると東京だ。
遥香にはこだわりがあった。まだ東京に住んではいけない。一歩手前の川崎市に住んで、歌手で成功したら都内に住む。そう決めていたのだ。登戸の駅周辺で不動産屋を探し、飛び込みでアパートを探した。3件目の物件が気に入ってその日の内に契約をした。駅からは15分ほどで少し遠い。しかし、道を隔てた反対側に多摩川の堤防があってそこまで行くと対岸に東京が見える。堤防も広々としていて歌の練習で大声を出せそうだ。
遥香の”東京”生活の始まりだった。

僕が初めて遥香を見かけたのは9月の終わり頃、夏の終わりを感じる季節だったと思う。
その日、僕は九十九里浜にあるプール付リゾートスタジオで、グラビア撮影を終えての帰りだった。
新宿で首都高速をおり、スタッフを駅に落とすため新宿駅南口に向かった。九十九里から高速で2時間半ほどかかり、新宿駅南口に着いたとき辺りは少し暗くなりかけていた。
南口の横断歩道を過ぎたところで車を止め、アシスタントとヘアーメイクをおろした。車のトランクを開けヘアーメイクの大荷物を降ろし、駅方向に見送った後、雑踏の南口広場でギターを弾きながら跳ねている女の子を見かけた。
斜め後ろから見かけただけで顔はよく見えなかった。
どんな歌を歌っていたかも覚えてはいない。
でもきっとその子が遥香だったと僕は思う。

登戸で、駅から歩いて15分くらいで、アパートの窓から多摩川の堤防が見え、堤防から反対岸に東京が見える。
それしか聞いていなかったので遥香のアパートが何処にあるのかわからない。とりあえずカーナビをたよりに「登戸駅」まで行き、駅から地図を頼りに川沿いの道を走り、止められそうな土手の斜面を少し下り、車を止めた。後部座席に子猫のようにうずくまっている遥香をそのままにして、暖房で暖まっている車内の空気を入れ換えようと少し窓を開けた。
車についている車外の温度計は2°を示している。3センチメートルほど窓を開けると、乾いた冷たい12月の空気が車内に流れ込んできた。
暖房で紅潮気味のほほに心地よく感じた。

10月の終わり頃、インディーズレーベルNAOレコードの社長から電話があった。
内容は、インディーズデビューする19歳の女の子のCDジャケットの撮影依頼だった。
日程を調整し、具体的な内容になったところで、
「今その子ここにいるんだけど、今日時間ある?」
「あ、いいですよ。ヴィジュアルのうち合わせしましょうか?こちらから行きましょうか?」
「いや、当日僕立ち会えないからマネージャーと本人連れて今から行きますよ。」
1時間ほどして、
エレベータホールの方が妙に騒がしくなった。
「おっはよ〜ございま〜すっ」
社長とマネージャに連れられたその子はだぶだぶのトレーナーを着て背中にギターを背負ったまま90°お辞儀をして挨拶をした。
あやうくギターのネックで頭を殴られるところだった。
「とりあえずこんな感じなんですけど・・・」と社長に紹介された。
4人でしゃべっているうちに僕は何となく思い出した。
「新宿駅南口でストリートライブやってない?」
「やってます〜。えっ?しってます〜?」
「ひと月くらい前に偶然見かけたけど、きっとそうだと思う。」
「ん〜そ〜ですか?それはラッキィ」

社長のイメージとしては、
真っ白いところからスタートさせたい。明るくポップに仕上げたい。
と言うコンセプトで僕がアートディレクションを引き受けた。
RAW + jpeg
一週間後、
僕のスタジオでフォトセッションが始まった。
サベージのスーパーホワイト ワイドをホリゾントにし、遥香が絵を描いていく。
僕はそれを寄ったり引いたり、音楽をガンガンにかけながら撮影した。
カメラは「ニコンD3」レンズは「AF-S VR Zoom-Nikkor 24-120mm f/3.5-5.6G IF-ED」
設定はヴィヴィッド、RAW + jpeg
jpegでセレクトした後、使用カットのみをRAW現像し、TIFFでデザイナーに渡す。
ライティングは2400WSのコメットを6灯、スタジオの4メートルの高さの天井にバウンスした。
最初に3.6メートル幅のバックペーパーの端から端まで5色のペンキで遥香が虹を描く。さらにそこに太陽や川や家を描き加えてゆく。
その後、自分が着ている白いつなぎに自分で絵を描き、最後に自分の顔にペンキを塗っておしまい。
3時間のフォトセッションが終わった。

僕は窓を閉め、車内は暖まっているので車のエンジンを切った。
背もたれを少し倒し、音を少し絞って遥香のCDをかけた。
5曲のミニアルバムのラストの曲、小田急線を歌ったバラードをリピートにセットした。

遥香は毎日ブログを書いている。
多い日は1日に20〜30回書き込んでいる。
ストリートライブ情報やレコーディング、もちろん「ジャケ写」撮影の様子も逐一ブログに書き込んだ。
僕は撮影の日から毎日遥香のブログをチェックした。
12月24日クリスマスイブの日、遥香のファーストアルバムがインディーズで発売になった。
僕はその日、スタジオでティーンズファッション誌のファッション撮影をしていた。
モデルカットを終了し、物撮りがおよそ100カット。
撮影は深夜におよんだ。
撮影終了後、年内にデータを納めなくてはならないため、引き続きスタジオで写真セレクトを始めた。
12時を過ぎた頃、そうか?今日はクリスマスイブだ。
と思ったとき、遥香のアルバム発売を思い出した。
撮影終了後マネージャーから、「出来次第すぐに送ります。」という申し出を断っていたのでまだ最終的な仕上がりを確認していない。
「イブの夜、自分で買いに行くから。」と約束していたのを果たせそうもない。
そう思いながら、遥香のブログをチェックした。
「マネージャーと一緒にCDショップを営業でまわっています。」
「店頭でミニライブをやらせてもらいました。」
遥香の元気がおどっていた。
しばらく写真セレクトをし、今日はもう終わりにして後は明日にしようと思い、「ViewNX」を閉じ、
もう一度遥香のブログをチェックすると、
「ショップ営業が終わったので、南口でストリートライブをやります。」
「多くの皆さんが、クリスマスイブにもかかわらず、足を止めて聞いて下さいました。ありがとうございました。」
「大変です。うっかりして終電が終わっちゃいました。」00:40
と、書き込まれていた。
僕は遥香の携帯番号を知らない。
遥香がタクシーで帰るところを想像できなかったので、僕はスタジオの戸締まりをして新宿駅に向かった。

クリスマスイブの新宿西口地下ロータリーは午前1時を過ぎても人がごったがえしていた。
タクシーの列をパスして、ロータリーを廻りきった辺りに車を止めた。
「友達の家にでも転がり込んだかもしれない、一回りしていなかったら帰ろう。」と思い
西口の小田急線改札に向かった。
ギターを持っているから目立つはずだ。
改札まで走って行き、辺りを見回すと遥香がいた。
券売機の隅の方で、キャリーカートにアンプとCDを積み、背中にギターケースを背負ったままうずくまっていた。
ゆっくりと近づき、しゃがみ込んで声をかけた。
「遥香、ブログ見たよ。頑張ったみたいだね?」
遥香はゆっくりと顔を上げた。
「わかるかな?ジャケ写撮ったカメラマンだけど?」
「わかります〜。わかりますよ!どうしたんですか?何でここが?」
「だから、ブログ見たよ!『終電乗り遅れました!』って書いてあったから、迎えに着たよ。家まで送ってあげるから・・」
「サンタだ〜!!!サンタが着た〜!!」
「声が・・大きいよ!人がいっぱいいるから、し〜っ!」
「だって〜どうしようかと思っていたんだもん。このままクリスマスイブの夜、『私は路上で死ぬんだ』って思っていたんだもん。」
「そこに車止めてあるから、寒いから、そこまで行こう。」
僕は遥香のキャリーバッグを引いて、涙ぐんでいる遥香を車に乗せた。

約束より少し遅れたけど、僕は発売の日に遥香のファーストアルバムを本人から買った。

午前6時を過ぎると、辺りが少し明るくなってきた。
東の空が、紺色から青色に変わってゆく。
僕は車から出て堤防から多摩川越しに東京を見た。
相変わらず空気は冷たいが、まもなく日が昇る。

朝の気配を感じる澄んだ空気が心地よかった。




この話はフィクションです。
登場人物は実在しません。
写真はイメージです。

2011年12月26日月曜日

ライカレンズを全部買う その1

ズマロン35ミリF2.8
ライカにはまってしまった僕は、M3からM6までほぼフルラインナップでライカレンジファインダーカメラを買ってしまった件は、
「ライカその3」に書いた通りだが、もちろんカメラボディだけを買っていたわけではない。

ミノルタCLEでレンジファインダーカメラの魅力を知った僕はその後、コンタックスG1でレンジファインダーカメラ熱が再発、その際G1がカバーしていない135ミリレンズを使おうとしてライカにのめり込んでしまった。
そんなわけで、最初に買ったライカレンズは「エルマリート135ミリF2.8」だった。このときは小さなボディに大きなレンズであまりライカレンズの魅力を感じることはなかった。しかも広角系のM6ボディに望遠135ミリを使うのに不便を感じた位で、まだレンズにははまっていなかった。しかし望遠系ボディを求めてM3を買ってしまい、このM3に使おうとライカの標準レンズ50ミリを探し始めたあたりからライカレンズ熱におかされてしまったようだ。

元々はカメラコレクターではなかった。仕事で必要なカメラ、レンズにしかそれほどの興味はなかった。次々と仕事で使えないようなクラシックカメラを買い始めたのはこの時期、写真撮影と平行してもう一つカメラにかかわる仕事を始めていたからだった。
某出版社から出ていた「中古カメラGET !」という雑誌に古いカメラ、レンズの試用レポートを書き始めたのだ。企画は全て持ち込み企画で「二眼レフカメラ ローライフレックス」だったり、「レア物ニッコールレンズ」だったりと自分の持っているカメラの中から、その使い勝手や良いところ、悪いところ、使用上の注意点などを毎号連載で書かせてもらっていた。中でもニコンとライカに関する記事が読者に好評だそうだ。そこで読者の疑問に載っかって僕自身も興味があるカメラ、レンズを自分で購入し、その使い勝手をレポートして記事にしていた。つまり、この記事の原稿料は全て機材購入にあてていたのだ。

デュアルレンジズミクロン50/2
M3には50ミリを付けてみないと本当の良さがわからないだろう、と様々な情報を集めているうちに興味がわいたのが「デュアルレンジ ズミクロン50ミリF2」だった。
レンジファインダーカメラは一眼レフカメラに比べて近接撮影に弱い。普通の50ミリ ズミクロンでは1メートルまでしか近距離撮影が出来ないがデュアルレンジは約45センチメートルまでの近接撮影が可能である。このため「メガネ」と呼ばれるファインダーアタッチメントが付き、2重の距離計カム構造になっていたりとメカ好きにはたまらない複雑な仕掛けで出来ており、かつ、このレンズの写りがすばらしい。一説によるとレンズを組み立てた後、性能検査をし、結果の良かったレンズをデュアルレンジに組み込んだという説もある。一般の方にとっては『良いレンズ』の定義が難しいと思うので、僕の思う良いレンズとは『欠点がないレンズ』と定義しよう。レンズの良くない部分は周辺部に出る。周辺の像が流れたり、ボケたりするのは×。またレンズ開放時に欠点が出やすい。像がにじんだり、輪郭に色がついたり。そんな欠点がなければよいレンズ。デュアルレンジズミクロンは欠点のない、しかも正確な近接(クローズアップ)が出来る理想のレンズだった。

ここでうんちく。『理想レンズ』とは、
点対点対応、
線対線対応、
面対面対応が出来ているレンズのこと。
つまり点が点に写る。円になったり面にならないこと。
線が線に写る。曲がったり、太くなったりしない。
面が面に写る。曲面になったりしない。
これが理想レンズだが、実際はこれらを崩す収差が発生する。
その収差が少なく抑えられ、発色の偏り(色付き)が無く、使える大きさで、買える値段。
これが僕の思う理想レンズ。

この理想に限りなく近い「デュアルレンジズミクロン」と出会い、どんどんライカレンズに興味がわき、比較的古いレンズから買い始めた。
50ミリの次は35ミリだろうと、次に探したのが「ズマロン35ミリF2.8」
最初に購入したズマロンが正に当たりのレンズだった。開放ではやんわり滲み、絞るとシャープに描写するちょっと線の太い良い味のレンズだった。

このあたりのレンズは1960年頃発売された物で、製造からおよそ50年経過しているため1本1本の個体差で当たり外れが大きい。撮影してみないとわかりにくいため一概に「評判」があてになるとは限らない。

ズマロン35ミリF2.8
ズマロン35ミリF2.8が大いに気に入ってしまった僕は次に「ズマロン35ミリF3.5」「ズマロン35ミリF3.5 Lマウント」「ズマロン35ミリF2.8 めがね付き」
そして、「ズミクロン35ミリF2」へとライカレンズの泥沼へずぶずぶとはまっていってしまった。




つづく

2011年12月8日木曜日

ニコンFから教わったこと・・

「あいつ」が現れたのは12月も半ばを過ぎた頃だった。

僕はその日、卒業後初めての大学の同窓会、兼忘年会に出席した。
同窓会というのも微妙で、社会人になってから数年経ちみんなに誇れるものがあれば勇んで参加するが、そうでないとなかなか参加しづらいものだ。
その日参加したのも6人で、地方にいて参加できない、忘年会がダブって入っている等、参加できない物理的理由は色々あると思うが、実際のところ参加したくないほうが多かったと思う。
そういう僕もちょっと腰が引けていた。
フリーカメラマンになって約1年、食っていくだけの仕事はあるがまだまだ同窓生に誇れる状態ではなかった。
参加した6人は天下のH報堂写真部、K談社写真部、S界文化社写真部、小さな制作会社に就職したら会社が大手に吸収された大手制作会社のカメラマン、フリーランスでめきめき名を上げているファッションカメラマン、そこにフリーランス1年目の僕だ。
「車何乗ってる?」
「俺、ミニクーパー」
「お~、でも機材積めないんじゃないか?俺はクラウンのステーションワゴンだけど相当機材積めるぜ!」
いやな展開になってきた。
「おまえは?」ついに来た。
「俺は・・・VF400」
「なんだそれ?」
「いや、ホンダのバイクだョ。」
「それで仕事行くのか?機材ど~すんだよ?」
「いや、意外と積めるんだ。タンデムシートにカメラバックと、コメットの1200くくり付けて、三脚とライトスタンドはマフラーのところに斜めに・・・」
気がつくと、話題は次にうつっていた。

その日僕は飲めない酒を飲んだ。
1人では絶対に飲まないが、つき合いではビール1杯程度。
1杯で顔が真っ赤になり、ロレツがまわらなくなってくる。
2杯で手の力が抜け、グラスが持てなくなり、
3杯で頭が痛くなる。そこでやめてしまうので、僕にとっては4杯以上は未知の領域だ。
3杯飲んだところまで覚えている。
僕が飲めないことを知っているみんなが「おまえも社会人になってオトナになったな~」と褒めてくれたところまでは・・・

小田急線の中では頭が痛く、下北沢駅では足取りもおぼつかずヨロヨロとアパートにたどり着いた。
部屋の電気を付け、ソファーにドスンと座り込んで一安心した。
頭はガンガン痛かった。

ふと顔を上げてテレビのところを見ると「そいつ」がいた。
大きさは猫位で、身体は白っぽいがむこうが透けて見える。頭は三角形で耳ははえていない。
お腹がぽっこり出た「そいつ」は、僕のテレビ台の上で足を組んでふんぞり返り、腕を組んでテレビに寄りかかっていた。
「ついにきた~。未知の領域・・飲み過ぎると見える幻覚か~?」
『なにやってんだ!』
「何だ、しゃべるのか、幻覚のくせに・・」
『幻覚じゃな~い!』
「幻覚に決まってるだろ、じゃあ何なんだおまえ!」
『俺はカメラの精だ。りっしんべんの性じゃないぞ、米へんの、妖精の精の、カメラの精だ。』

こんなのが出てきちゃったよ。やっぱり飲めない酒は飲むモンじゃないな~。つくづくそう思い目をつぶったまま首をぐりぐり回した。
『オイ!ちゃんと聞け!おまえ何やけくそになってんだ、悔しくないのか?』
まだなんかしゃべってるよ。
『おまえも他の連中に負けない立派なカメラマンになりたくないのか?』
あ~自分の中のコンプレックスがこんな形に表れるんだな~。
「そいつ」はなんだかブツブツとしゃべり続けていたが無視をしてパジャマに着替え、歯を磨いてベッドに潜り込んだ。
後頭部がズキズキと痛んだ。

翌朝、目が覚めて時計を見ると11時だった。外は雨が降っているようだ。
まだ頭が痛い。
今日は一昨日撮影した写真の上がりを届けに行く約束をしている。
いつもはバイクで行くのだが、雨が降っていてはバイクでは無理だ。
電車で届けに行くならもう起きなくてはならない。
12月の寒さに負け、ベッドでグズグズしていると、

『約束を守るのは最低限度のルールだぞ。』
聞いたことのある声が聞こえた。
布団から顔を出してみると「そいつ」がまだテレビの前にいた。
なんだよ~!昨日の幻覚まだ消えないのか?
『だから、幻覚じゃないッ!カメラの精だ。
約束を守る。
挨拶をする。
これ社会人の、いや、人として最低守らなくてはならない常識だ。
早く起きて届けに行ってこいッ!』
僕は飛び起きてテレビの前に行ってみた。「そいつ」は慌ててテレビの裏に逃げ込んだ。幻覚にしては実体がハッキリ見える。
『だめ~触っちゃ。汚れるから~。』

なんだかやっかいなヤツに取り憑かれてしまったようだが、完全に酒が抜ければ消えるだろうと諦めて、顔を洗ってみた。
頭はまだズキズキ痛い。
「そいつ」はまだこっちをにらんでいる。

僕は現像済みポジを雨に濡れないように、2重の封筒に入れてカバンに入れた。
新宿で電車を乗り換え、池袋で地下鉄に乗り換え、出版社に向かった。
バイクだったら30分とかからない距離だが、電車を乗り継いで1時間ほどかかった。
午後1時の編集部は閑散としている。だいたい編集者が全て集まるのは夕方だ。
「午後一に届けます。」と言っても結局相手の編集者はまだ来ていなかった。
「あの変なヤツにせかされなければみんながいる夕方に届けに来たのに・・・」
と、独り言をブツブツ言いながら副編集長に「おはようございま〜す」と挨拶をし、「○○さんの写真の上がりここに置いておきま〜す。」と、まわりに聞こえるようにちょっと大きな声で言って帰ろうとしたとき、
副編集長に呼び止められた。「ちょうどいいや。1月にオーストラリアロケがあるんだけど10日間ほど予定もらえるかな?」

帰り道、書店によってオーストラリアのガイドブックを買って、足が地に着かないような感じで、鼻歌を歌いながらアパートに向かった。
すっかり昨日の酒も抜け、頭痛もとれていた。

アパートの鍵を開け自分の部屋に入ろうとしたとき、中から人の声がした。
恐る恐るドアを開けて見ると、テレビがついているようだ。
朝あわてて消し忘れたか、と安心して中に入ると「あいつ」が僕のソファーに座ってテレビを見ていた。
『どうだった?なんか良いことあった?』


「あいつ」はそれから1週間、うちに居候をして、その間
『お礼状書けよ!』とか、『靴はちゃんと磨け!』とか、
何だか躾係のように毎日毎日小言を言って僕に指図をした。

『最後にな〜、大事なことを言うからしっかり覚えておけ!
カメラは使うときは厳しく使い、使い終わったらやさしく手入れをしろよ!
そうすればず〜と使えるから。』
そう言って「あいつ」は段々透明度が増していって、消えてしまった。


年が明けて、オーストラリアロケの用意をした。
「ボディはこれとこれ、レンズは念のため予備も持って行こう。」
そんな独り言を言いながら、普段使わない機材を保管しているカメラバッグを開けてみると、
なつかしい『ニコンF』が出てきた。
高校時代のあこがれのカメラで、とっくに製造は終了している。
アシスタント時代に中古カメラ店で一目惚れをして衝動買いをした中古品だ。
最初のうちは嬉しくて毎日のように触っては磨き、空シャッターを切って楽しんでいた。
実際は、時代遅れのカメラで実用にはならない。
そのうち飽きてしまい、バッグの中に入れっぱなしになっていた。
何だかピンと来るものがあって、ロケとは関係ないが『ニコンF』を取り出した。
ひんやりと冷たく、ずしりと重たい感触が手に伝わってきた。
巻き上げてみたが、ゴリゴリと重たい。キャップを外しファインダーをのぞいてみると周辺にカビが生えている。
何年かほったらかしにしていたせいだ。
僕は『ニコンF』をテレビの前に置いた。

オーストラリアロケから帰ってきて、僕はすぐにニコンのサービスセンターに『ニコンF』を持って行った。
製造終了後何年も経っているが、部品交換をともなわない点検、整備は今でも可能だ。

1週間ほどして「あいつ」は帰ってきた。
今度はカメラバッグにしまわず、テレビの前にセーム皮を敷いて「あいつ」を置いた。

お互いにいつでも見える場所だ。
それからの僕は仕事がどんどん忙しくなっていったが、
1日1回は「あいつ」を磨き、そして話しかけるようになっていた。
「あいつ」がしゃべることは無かったが、気持ちは通じている、そんな気がした。

2011年12月6日火曜日

ライカその3 コンタックスG1きっかけでライカにのめり込む

M6 Leitz
ライカM6とミノルタCLE、コンパクトなボディ2台にMマウントロッコール28ミリと90ミリを付け、40ミリを予備に持ち歩く。
1985年に本物のライカを新品で購入してから、こんな軽装備でも仕事が出来る事を知った僕はしばらくの間ライカでレンジファインダー撮影を楽しんだ。しかし、中判撮影が増えるに連れ、ライカの仕事での出番は減っていった。

その後のライカはチタンメッキのM6をだしたり、特別なロゴマーク付きを限定生産したり、とても進化と思える変化がなく過ぎていた。

時は経ち、1994年京セラから画期的レンジファインダーカメラ「コンタックスG1」が発売になった。
チタン外装
オートフォーカス
実像式ズームファインダー
カールツァイスレンズ
ライカM6とほぼ同じ大きさで電動巻き上げ、巻き戻し
いっこうに進化しないライカM6に比べ画期的に進化した次世代レンジファインダーカメラとして多くのファンを獲得した。
中には『ファインダーの見えが悪い』『オートフォーカスの精度が悪い』などと批判的な意見もあったが「ライカとは別物のレンズ交換式AFレンジファインダーカメラ」として好評を博した。
値段は少々高いがライカと比べればベラボーに安い。
僕はすぐに飛びついてG1ボディと28ミリ、90ミリの2本を購入した。
その頃のカメラ雑誌では盛んにライカレンズとカールツァイスレンズを比較したり、ライカボディとG1ボディを比較したりの記事が花盛りだった。
前評判の高かったカールツァイスレンズは実際使ってみると適度のコントラストと硬すぎないシャープさで魅力にあふれたレンズだった。
実は、G1購入の資金に充てるためミノルタCLEと3本のレンズを手放した。
ライカはM6ボディ1台、レンズはなくなっていた。

「G1を仕事で使おう」と思ったが、何かが物足りない。
広角は28ミリで十分だが、望遠が90ミリまででは人物アップが撮れないので、もう少し長いレンズが欲しい。しかしコンタックスG1システムにこれ以上の望遠を望むことは不可能だ。
そこで思ったのが、広角28ミリはG1で、望遠はライカM6に135ミリを付けよう。
ライカのレンズはどれも高価だが、望遠系は余り人気がなく中古でとても安く手に入る。
それまでは仕事用カメラやレンズを中古で一度も購入したことがなかったが、ライカは別である。何しろ新品は高すぎる。

何軒か中古ライカレンズを扱う店を当たって、テレエルマー135ミリF2.8を65000円で購入した。
早速ライカM6に付けてみた。
広角28ミリに対応したM6に135ミリを付けると撮影範囲を示すカギカッコ 「  」が中央のほんの一部を示す。写る部分が拡大されるわけではないので、ハッキリ言って見やすいものではなかった。初のライカレンズも生かしようがないのか、と思ったとき「ライカM3はどうか?」と思いついてしまった。

1954年発売になったライカMシリーズの最初のカメラである「M3」は50ミリと、90ミリ、135ミリに対応したどちらかというと望遠よりのファインダーである。
後に発売になった「M2」は35ミリレンズ対応の広角系ファインダーである。当時のライカ使いは50ミリ以上はM3で、35ミリはM2で、と使い分けていたと聞いた。
ならば、135ミリ用に「M3」はどうか?
このとき既にいわゆるライカウイルスに感染していたようで「135ミリ以上は一眼レフの方が使いやすいよ」と言う自分の中の正しい考えがウイルスによって打ち消されていたようである。

そして熱におかされ正常な判断が出来なくなった僕は「コンタックスG1」そっちのけに、ついに「ライカM3」を購入してしまった。
値段は10万円をちょっと越えた程度の、M3の中では『格安』のものを選んだ。
一眼レフが「カシャーンッ」だとすると、
ミノルタCLEは「カシャ」で、
ライカM6は「コト」っとシャッターが切れる。
と以前書いたと思うが、M3はもっと静かで「・・」
それはオーバーだが、以前から「Mシリーズの最高傑作はM3」と聞いていた意味がわかってしまった。
それから、
M2
M3と同じ感触で35ミリ用広角ファインダー付「M2」を購入。
M3はフィルム装填がM6よりさらに難しくなっているが、M2に「クイックローディングスプール」を付けるとM6と同じようにフィルム装填が出来る。
ならばM4の方がM6に近いだろうと「M4-2」も購入。
「露出計が入っていないからライカは使えない」と思っていたなら露出計内蔵「M5」を買わなくては、と・・「M5」も。
同時期に発売されていた「CL」も買わなくてはと、
気付いてみると、

M3ダブルストローク
M3シングルストローク
M2クイックローディングスプール付
M4-2
M5 2吊り
M5 3吊りブラック
CL
M6[Leitz]
M6[Leica]
CL

細かな説明はしませんが、おかしいことだけ解って下さい。
これらのカメラ何に使います?
仕事?
あ〜〜もう完全にライカ熱・・・

コンタックスG1きっかけに完全にライカウイルスに冒されてしまった僕は
もちろん、ボディだけでは収まらず、
レンズも全部買う暴挙に至る。


以下次号