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2011年9月11日日曜日

「マミヤRZ67プロフェッショナル」の逆像呪縛    あるいは「Hasselblad」その3    または 働くカメラ「マミヤ」の変遷

どんな仕事でもそうだと思うが、仕事のランクは下から上に上がって行く。僕が言いたい「下から上」というのは「足」「腕」「頭」を使う様にランクが上がるという意味だ。
カメラマンに成り立てのころは、
「何時いつ何処どこへ行って何なにを撮ってきて下さい」といった、内容はともかく写真が必要だという使いっ走り的「足」の仕事。記事中写真としてのあつかい。
少しランクが上がると、
「こんな写真にしたいんだけど出来るかな?」「出来ますよ。ライトを加減して長玉でボカせばこうなります」といった、技術が要求される「腕」の仕事。写真中心だが文章も重要なページが多い。
もっとランクが上がると、
「今回こういうテーマなんだけど」「わかりました。じゃあ、画作りは任せて下さい」といった、アイデアやセンスが要求される「頭」の仕事。写真が全面に使われる、いわゆるグラビア写真等。
ランクが上がるに連れ写真の大きさ、あつかいも大きくなってくる。

カメラマンになってすぐ、無理して購入したハッセルブラッドだが、いっこうに中判カメラの出番はなかった。しかし、もしもそんな仕事が来てもシステムが揃っていない。当初の予算内で購入できたのは500C/Mボディと150ミリ望遠レンズのみ。仕事で本格的に使おうと思えばさらに、50ミリ広角レンズ、80ミリ標準レンズ、フィルムマガジンが2個、合計70万円ほど必要だった。日頃使っているニコンのカメラボディを新機種に替えたり、交換レンズを明るいレンズにグレードアップしたり、そんなこんなに受け取ったギャラを使っていてとてもハッセルブラッドにまで予算がまわらないでいた。ポラカメラとして使っていたハッセルだったが、1982年「コンタックスプレビュー」ポラカメラが発売され、ニコンマウントに改造し使い始めるとますますハッセルの出番はなくなっていった。そして友達の友達に貸したところ「使っていないのなら是非譲って欲しい」言われ、35万円で譲り渡した。カメラマンになって2年を過ぎたころだった。

これが基本形のRZ 110ミリ付
ハッセルブラッドを何れはシステムで揃えようと思っていたのだが、何を買うにも日本製のカメラと比べて2倍以上の高額でなかなか手が出ない。ここはステータスよりも実用性を考えて日本製中判カメラをシステムで揃えることを考えた。当時プロが使っている中判カメラは「アサヒペンタックス6×7」と「マミヤRZ67プロフェッショナル」が二大主流であった。ペンタ67は35ミリカメラを大きくした形で、手持ち撮影も可能なフィールドカメラ。RZ67は三脚にのせてじっくり撮影するスタジオカメラの位置付けだった。僕はハッセルの替わり、と考えるとペンタ67ではないと思いRZ67に決めた。予算はハッセルを売ったお金の35万円。新宿のYドバシカメラ西口本店でRZ67ボディ、110ミリ標準、180ミリ望遠レンズ、フィルムマガジン3個、ポラマガジン一式、スタジオで人物を撮影するのに十分なシステムをちょうど35万円で購入したと記憶している。当時の愛車 ホンダVF400のタンデムシートにうずたかく積み上げて縛り、後ろ手で確認しながら下北沢のアパートに持ち帰った。
このマミヤRZが僕が仕事で使った最初の中判カメラである。

180、ペンタプリズム、ワインダーを付けたRZ67。合体ロボか? 
「マミヤ」と聞いても聞き慣れない方がほとんどだと思う。昔は35ミリカメラやコンパクトカメラも作っていたが1985年に事実上倒産してからはターゲットを絞りもっぱらプロ向けの中判カメラを作り続けている。645、6×6、6×7の3サイズの中判カメラをプロカメラマンや営業写真館向けに作っていて、ハイアマチュアの使用者はいるが、一般コンシューマー向けカメラは現在も出していない。

このRZも雑誌の撮影ではなかなか出番はなかったが、しばらくしてB全ポスターの依頼を受け本格的にRZを使い始めた。
雑誌の場合はカメラマンにまかされる部分が多いが、ポスター撮影などはしっかりとレイアウトが決まっている。モデルの場所、背景の色、文字の位置、全ては事前に決まっていて、それに合わせて撮影しなくてはならない。その時はモデルは右の位置で向かって左を向き、左にキャッチコピー、下に会社名などが配置されたレイアウトだった。デザイナーが描いたラフコンテを見ながら、先ずはセットを組んでライトをセットしポラを切る。デザイナーとディレクターがそのポラを見てクライアントと相談、そんな進行状況だった。
僕はその頃は35ミリのニコンで撮影することがほとんどなので、はっきり言ってRZ67にはあまり慣れていなかった。ニコンとの違いはたくさんある。シャッターを切ったとたんファインダーは真っ暗になり、フィルムを巻き上げるまでファインダーは見えなくなる(ハッセルも一緒)。ファインダーは正面向きでなく真下を見るようにのぞき込む。大きな違いは、左右が逆さまに見えること。傾きをなおそうとしても左右の空きを調節しようとしても反対に動かしてしまう。モデルを見て、ファインダーを見ると反対に見えてしまって混乱するので、ファインダーの中に集中することにした。「モデルの背中側を減らして前側の空間をもう少し大きく取り、全体を少し引いて周りに余裕を持たせ・・・」こんな風にフレーミングを決めポラを撮る。そのポラを元にデザイナーがトリミングスケールとトレぺを使ってレイアウトを詰めて行く。順調に撮影は終了し、ラボにテスト現像を出し家に帰った。
撮影したポラは全てクライアントとデザイナーが持ち帰った。僕の手元に残ったのはラフコンテ・・・。モデルは右で左に空き・・・。こんなレイアウトで撮った記憶がない。全部モデルを左に配し、右に空きを作った。もしかして全部左右反対に撮ってしまった?いやそんなことはないファインダーが逆に映るからだ。解っていても心配になってしまい何でポラ1枚手元に残しておかなかったのか後悔した。もしかしてラフコンテを裏返しに見て本当に左右反対に撮ってしまったかも?そんなことはない。デザイナーもクライアントも確認している。でももしかして左右が逆だった場合、裏返しに製版すれば救えるか? いやそれは無理だ、服のあわせが反対になってしまうからそれは出来ない・・・。延々そんなことを考えてしまい眠れぬ夜を過ごしたが、、、翌朝ラボに行ってみれば全て取り越し苦労。問題なく左右はコンテ通りに写っていた。

仕上がりは上々で初めてのポスター撮影には十分満足できた。それまでは雑誌に写真が載っていてもすごく満足出来たのだが、大きく印刷されたポスターが駅や街の中に張り出されるのはカメラマン冥利に尽きる喜びだった。

その後「マミヤRZ67プロフェッショナル」の出番は徐々に増え50ミリ広角レンズ、250ミリ望遠レンズなどと左右が正像に見えるプリズムファインダーを購入し「左右逆像」の呪縛からは解き放たれた。

RZ67と645AFD
だんだんと写真のあつかいが大きくなり巻頭グラビアを依頼されるようになると1枚の写真がページいっぱいに伸ばされて使われるようになる。そうなると35ミリカメラよりブローニーフィルムを使った中判カメラで撮影した方が画質的には圧倒的に有利だ。しかし、マミヤRZ67は手持ちでロケで撮影するような万能カメラではない。フィルムは同じブローニーフィルムだがサイズが一回り小さい645カメラを検討した。これも当時の主流は「ペンタックス645」「マミヤ645」の2機種だった。たぶんペンタ645を使っているプロの方が多かったと思うが僕はマミヤ645を選んだ。理由はポラが切れるから。ペンタックスはプロ用カメラであるにもかかわらず67も645もポラが撮れない。その方がメカ的にシンプルになったりコンパクトに仕上がったりのメリットはあると思うが仕事上はポラは必須だ。そんな理由から「マミヤM645スーパー」を2台購入しグラビア撮影に使い始めた。
初めてロケで使ったのが鎌倉にある日本庭園でロケをした新人女優さんの撮影だった。庭園で撮影しているときは気にならなかったのだが、和室の室内で撮影し始めて音の大きさに驚いた。ニコンだったら「カシャ!ウィン(シャッター音と巻き上げ音)」程度の音だがマミヤ645は「ガシャンッ!ギャーーッ!!」ととてつもなく響く。新人女優さんに「元気のいいカメラですね」とほめられた。
このへんがペンタ645との違いなのかと、ちょっと後悔した瞬間でもあった。

645一式をバッグから出した。レンズは5本しか写っていない。
しかし音はさておき、手持ち撮影も可能でブローニーフィルム1本で15枚撮影でき(67は10枚)、ポラも撮れる。あつかいの大きいページの仕事は645で撮影するようになり、だんだん取材モノは35ミリそれ以外は645がメインになっていった。1992年にモデルチェンジした「マミヤ645PRO」は動きも滑らか、音も静かになったのを確認し3台導入。騒音の呪縛からも解放された。レンズは45ミリF2.8、80ミリF2.8、110ミリF2.8、120ミリF4マクロ、150ミリF2.8、210ミリF4、300ミリF5.6、55-110ミリF4.5ズームの8本になり、アシスタントなしでは運べないほどの大荷物になった。

デジタルカメラの時代になって35ミリカメラの撮影はすべてデジタルに変わっても、中判カメラの圧倒的高画質はデジタルでも追いつかずしばらくはデジタルと中判フィルムカメラを併用した。
2005年キャノンが「EOS 5D」を発売したころからプロの世界でもデジタルへの移行が始まり、2007年「ニコンD3」を導入したころから僕の仕事もデジタルに完全移行した。


現在はフィルムカメラ マミヤ645の出番はない。
しかし、2002年に僕は新たなマミヤを導入した。「マミヤ645AF D」 当初はフィルム撮影で使用していたが、フィルムバックをデジタルバックに交換するとデジタルカメラにもなる。しかもプロ用デジタルバックのフェーズワン、リーフ、両メーカーと連携しハイエンドデジタルカメラに変身可能。ニコンやキヤノンと違い、必要に応じてデジタルバックを交換すれば、カメラごと新機種に買い換えなくてもよい次世代に対応できる仕事カメラである。

フィルムバックをデジタルバックに交換すればAFデジタルカメラになる。ただし、バックだけで100万円以上する・・・(汗)。

2011年7月4日月曜日

「Hasselblad」その2  そして僕はハッセルを買った

HASSELBLAD
 秋深い日の午後、僕は肩掛けカバンを斜めにかけ代々木駅前に立っていた。カバンの中には郵便局から下ろした50万円が封筒に納められて入っている。

何年ぶりかで大学の恩師に電話をかけた。アシスタントをしていたU師匠のところをやめたことなどを話したあと、ハッセルを安く購入するアドバイスを請うた。教え子の中にカメラ店や、輸入元に就職した先輩がいることを期待したのだ。

 恩師に紹介されたカメラ店が代々木の駅前だった。その店は駅前にあるが、とても小さくどう見ても町の写真屋にしか見えない店構えだった。店はすぐわかったのだがしばらく入るのを躊躇して外からショウウィンドウを眺めていた。ガラスのウィンドウの上の方には新品のニコンやキヤノンが、下の棚には中古のカメラが5~6台並べられていた。その下の棚の隅のほうにハッセルブラッド正規輸入品取扱店章を確認して、僕は店内に入った。客は1人もいない。店の奥のカウンターの向こうに店主らしき人物がいた。
 先生から紹介されたことを話し、さらに最近プロになったこと、ハッセルを買うために50万円貯めたことを話し本題に入った。僕が欲しかったのは500C/MボディとA12マガジン、ゾナー150ミリF4レンズ、それとポラマガジンだった。

CF150ミリ、最初に買ったのはCのブラックだった
ハッセルブラッドは標準セットとしてプラナー80ミリF2.8とボディとフィルムマガジン一式で売られている。僕は80ミリ標準レンズより150ミリ望遠レンズが欲しかった。ファッションや人物撮影では背景をぼかして人物を強調することが多い。そのためのレンズが150ミリなのだ。当時ボディとマガジンで20万円、150ミリレンズが30万円、ポラマガジンが7万円位したと思う。

 店主は僕が欲しいものを全てガラスのショウケースの上に取り出し、さらに透明のゴムマットを敷いて箱から中身を取り出した。
左右がさかさまに写る。慣れないと動きを追うことができない。
 うながされて、僕は500C/Mを手にとり150ミリを装着した。引き蓋を引いてシャッターを切ってみた。『シュッ、ポン』に近いこもった音が響いた。キリキリと巻き上げ、もう一回シャッターを切ったあとフォーカシングフードを開いた。『カシャカシャ』と3枚の遮光プレートが起き上がる。レバーをスライドさせルーペをセットしてファインダーをのぞいた。操作には慣れている。くるりと入り口の方を向き、ガラス扉の外の景色にピントを合わせてみた。ルーペを納め、ファインダースクリーン全体を確認し店主の方に向き直った。ちょっと口角が上がっていたと思う。
 あとは金額の話だ。事前に量販店で確認した総額ではゆうに予算を超えていた。店主は電卓を押したあとこちらに向けて総額を提示し、それを僕の予算50万円ちょうどに値引きしてくれた。普通あまり値引きしない商品なのだがたしかに安くなっていた。最後の一押し、あとレンズフードも付けて欲しいと交渉したがそれは拒否され、もう一押し「サイドレールに付けるアジャスタブルフラッシュシューありますか?」ガラスケースの中からそれが出てきたところで「それは付けてもらえませんか?」と頼み込み、交渉が成立した。

サイドレール
ハッセルを使って仕事をするにはシステムで揃えることが必要で、ボディは予備を含めて2台、レンズは50ミリ、80ミリ、150ミリの3本が基本で、フィルムマガジン2個、ポラマガジン。以上で最低限度のセットになる。レンズは1本30万円近いし、フィルムマガジンだけでも8万円(これでニコンのカメラが1台買える)。細かなアクセサリーを含めると200万円近い投資が必要になる。さらに120ミリマクロレンズや250ミリ望遠レンズなどを加えると驚くほどの金額になる。

 ハッセルブラッド500C/Mを購入したもののしばらくはこのカメラの出番はなかった。最初の仕事は取材もの、その後ファッション撮影の仕事がすぐに来たが、どれも機動性を求められニコンで撮影した。ただハッセルはロケの時も持ち歩いてポラカメラとして使っていた。ニコンで撮影する前にハッセルでポラを撮って編集者に確認、さらにモデルに見せてコミュニケーションを取る。ポラを見せると慣れないモデルの娘は「こんなふうに撮れるんだ」と納得し、不安が解消されとたんに表情が良くなる。
そんな役割をした僕の初代ハッセルブラッド500C/M、150ミリ、ポラマガジンたちは、他のレンズやマガジンが増えることなく僕の手を離れ、知り合いのカメラマンに譲ってしまった。
その後はより機動性のあるブローニーカメラ、マミヤ645を使い始め、スクエアーサイズの6×6より雑誌の比率に近い645サイズがメインカメラになった。
それでも何年か経ち、少し経済的に余裕ができると「ハッセルは手元に置いておきたい」ともう一度買い集め、ボディ2台、レンズ3本、フィルムマガジン4個、プリズムファインダーその他アクセサリー一式が何時でも撮影できる状態になって今もある。

ただし、今後は仕事での出番はおそらくない。
真四角な6×6サイズは作品撮影用カメラとして長く使い続けたいと思う。

 僕の手の中に500C/Mがある。マガジンを外しボディ番号を見ると
「RP128・・・」
V  H  P  I  C  T U  R E S
1  2  3  4  5  6  7  8  9  0
上記コード表より、最初のアルファベット「RP」は83と読め、1983年製であることがわかる。
製造後30年近く経っているせいか、シルバークロームのボディの輝きが少し鈍くなっている。
機構は時を経ても何の衰えもない。
機械式カメラは、しまい込むことなく時々操作をすることによってずっと使い続けることができる。

これだけ古ければ、これ以上古くなることはない。

この項おわり

2011年6月27日月曜日

あこがれのカメラ  「Hasselblad」その1

あこがれのカメラ 「Hasselblad」

 僕が学生の頃は「報道系カメラの最高峰」=ライカ
「広告系カメラの最高峰」=ハッセルブラッドだった。
僕は写真学科の学生の頃から軟弱、お気楽を目指していたので、「戦場に行ってこの悲惨な実情を世界に知らしめよう」などとは一度も思ったことがなかった。中には「ライカでグッドバイ」の沢田教一や「ちょっとピンぼけ」のロバート・キャパのように「戦争の悲惨さを世界に伝えるような影響力のある写真を撮りたい」と言う友達もいたが、僕は「雑誌で女の子の写真をたくさん撮って、本を閉じたら忘れてしまう」そんな影響力のない写真を撮りたいと思っていた。

 そんな僕が卒業後アシスタントについたのが雑誌「non・no」でファッションを撮っているカメラマンU師匠だった。
そのU師匠が使っていたカメラが、ロケではライカ、スタジオではハッセルブラッドだった。
この二つのカメラの大きな違いは、ライカは35ミリフィルムを使うドイツ製の小型カメラで「レンジファインダーカメラ」の代名詞になっている。U師匠が使っていたのはライカフレックスで、これはライカであっても報道で使うようなカメラではない(このライカに関しては近々詳しく書く)。
ハッセルブラッドはブローニーフィルムを使うスウェーデン製 6×6(ロクロク)カメラでライカに比べると機動性がなくスタジオで三脚に付けて使う中判カメラだ。
ブローニーフィルムというのは幅が6cm(35ミリフィルムは文字通り、幅35ミリ)のフィルムで、カメラによって645、6×6、6×7といろいろなサイズで撮影できるフィルムである。フィルムは遮光紙と一緒にリールに巻いてあり、撮影が終わると遮光紙をシールで貼って止める。

 このハッセルブラッド [ Hasselblad ] が今回のテーマ。
ハッセルブラッドはシステムカメラになっていて、レンズ、ボディ、ファインダー、フィルムマガジンを自由に組み合わせて使うカメラである。

レンズ、ボディ、マガジン、ファインダー





さらにバラすと





 
 
















 アシスタントになって真っ先に苦労したのがハッセルのフィルム交換だった。6×6のハッセルはフィルム1本で12枚しか撮影できない。1本撮影するとフィルムを詰めたマガジン交換をする。この交換をするのがチーフアシスタントの仕事。セカンドアシスタントで新人の僕は、撮影済みのフィルムをマガジンから抜き取り、シールをなめてフィルムを封印し、シールに撮影番号を記入し、次のフィルムを装填しチーフに渡す。だいたい3つのマガジンをローテーションで使うが、フィルムが間に合わないと撮影が中断してしまい、師匠に怒られるため必死での交換作業になる。
U師匠は八王子生まれだが、フランスに何年か住んでいたことがあり、日常会話に時々『サバ!』などとフランス語が混じる。特に撮影中調子がいいと「いいね、いいね」が「Good,Good」になり、さらに「Bien Bien」が始まる。Bienはフランス語で、いいね!と同じ意味だが、この「ビアン、ビアン」が始まるともう止まらない。「ビャンビャンビャンビャンビャンビャンビャンビャンビャン・・・・・」と訳がわからないことを言いシャッターを押しまくる。そのビャンビャンに対応できるスピードでフィルムを交換しなくてはならないのだ。
35ミリフィルムカメラだと、36枚の撮影が終わるとフィルムを巻き戻して次のフィルムを詰めるので、ここで時間がかかって撮影が中断してしまう。ハッセルのマガジン交換のほうが途切れることなく撮影が継続できる。これがハッセルの利点でもある。

「今日もビャンビャンが出て調子がいいね!」等と編集者がつぶやく日には、 ビャンビャンのスピードで1日100本ものフィルム交換をしなくてはならない。セカンドアシスタントの僕はフィルムの封印シールをなめ続けるため舌がヒリヒリしてくる。これは切手と同じ、なめると張り付く封印シールで、アシスタント仲間では「コダックよりフジフィルムのほうが美味い」とか「時々メンソール味がある」などとまことしやかに語られていた。
さてそのハッセルブラッド、「いつかはハッセルブラッドを・・・」とアシスタントになってすぐ思い、ハッセルブラッド貯金を始めた。
 前も書いたが、この頃僕はU師匠から一ヶ月25,000円のアシスタント代をもらっていた。30数年前の25,000円だが、たぶん当時の大卒初任給8〜9万円の時代でその約三分の一。
僕は埼玉の実家から通っていたから食費も家賃もかからない。さらに休みがほとんどないからお金を使う暇もない。25,000円の中から毎月10,000円を定額貯金し、2年間で利息を含めて250,000円、4年目で500,000円貯めていた。5年目のある日、「言ってはいけない一言」を言ってしまった僕の言葉が師匠の逆鱗に触れ「明日から来るな!」と、クビになった。

「すぐにカメラマンにならないと食っていけない」と、翌日東京に引っ越し下北沢にアパートを借り、住所が決まったところで電話を引き、電話番号が決まったところで名刺を作り、

僕はカメラマンになった。

 ここまでで普通に貯めていた貯金をほとんど使い尽くした。
幸いにアシスタント時代に撮り貯めていた作品を持って出版社を5社回ったら3社から撮影依頼が来た。
 かけ出しカメラマンの最初の仕事には十分な機材を持ってはいたが、さらに上の仕事を目指して500,000円の定額貯金を解約し
僕はハッセルブラッドを買いに行った。

つづく
ニコンと大きさを比べた、ハッセル結構小さい