僕がプロカメラマンになったのは1981年。カメラはニコンF2フォトミックAとニコンFEの2台、
それと20/4,28/2.8,50/2,55/3.5マイクロ、85/2,105/2.5,200/4,300/4.5の8本のレンズ
これだけでカメラマンになった(なれた)。
ニコンは1980年にF3を発売しているが、プロは発売されたばかりのカメラにすぐには飛びつかない。それは初期不良が心配だからだ。発売されて半年もたつと初期不良が報告され、それがフィードバックされ製品に反映する。この頃の方が安定していて安心して使える。
もちろん僕もすぐには飛びつかずしばらく静観していた。でもそれは初期不良うんぬんではなくお金がなかったからだ。
普通はニコンF2とFEの2台だと格上のF2がメインカメラ、FEがサブカメラになる。だが僕はFEをメインカメラに使っていた。
理由は軽いから。
FEでもモータドライブを付ければ連写ができる。F2のモータドライブとの違いはF2は巻き戻しもモーターで行える点だ。しかしこれが「ウィンウィンウィン‥‥」と結構のろく、僕にはじれったかった。FEを手で巻き戻した方が高速で巻き戻せ、撮影がスムーズに進んだ。
しかし1日に20本ものフィルムを巻き戻していると右手の親指と人差し」指の爪がすり減って、爪の真ん中に溝ができ痛くなってくる。
半年くらいこの状態で使っていたが、あるときFEが「ガクッ」動かなくなった。その場はF2を使って切り抜け、すぐに新宿のニコンサービスセンターに修理に持って行った。
そこで言われたのが「ずいぶん激しく使っていますね。プロの方ですか?あんまりこのカメラはプロの酷使には向かないんですよね。」
これで決心がついて「ニコンF3」を購入した。まだこの頃は「F3ハイアイポイント」等はなく「F3」といえば「F3」1種類しかなかった。
さすがにF2から9年の歳月をかけ練り上げられてカメラだけあって軽快でモータードライブとの親和性も良く、巻き戻しも高速だった。
そしてこの後はレンズを1本ずつ買い換えていった。
先ずはちょっと絞り込むとどこにもピントがこなくなる85/2を85mmF1.4に買い換えた。ファインダーが明るくなりピント合わせも容易になった。
50mmもF1.8のパンケーキにした。
F3には十分満足していたので、そんな具合に収入があると1本ずつ明るいレンズに買い換えていった。一般的には明るさが一絞り明るくなると値段が2倍になるので出費はかさんだ。
そんな調子で仕事も順調になっていった1983年、友達のカメラマンから衝撃の情報が伝わってきた。
「ニコンからプロ専用のカメラが出る」と言うのだ。
それが「ニコンF3P」だった。
プロカメラマンの要望に応え随所に改良を加えた、市販をしない真のプロフェッショナルカメラだ。
不要な安全ロックを省いたり、回しやすいようにシャッターダイヤルを高くしたり、目立たないような小さな部分だが確かに使いやすくなっていた。
何よりもありがたかったのが防滴対策だ。
F3 |
F3P |
その汗がカメラにかかると大変なことになる。ニコンはF3から電子シャッターカメラになった。シャッターボタンは電気スイッチだ。しかもF3のシャッターボタンの真ん中にはレリーズを付けるための穴が空いている。ここに汗が一滴でもたれたらもうカメラは動かない。機械式カメラならしばらくは大丈夫だろうが、電子シャッターに塩水の汗は大敵だ。
感度設定ダイヤル |
F3Pはその部分にゴムのカバーがついた。さらに感度調節ダイヤルの部分も水滴が入らないようにカバーがついた。こんな細かなところが実にありがたく、その後もう1台のF3PとチタンボディーのF3/Tが増えた。
ハワイロケが入った。
ハワイのガイド写真だ。
相当なカット数がありフィルムを200本用意した。これだけでも相当な量があり持って行く機材はなるべく減らしたい。撮影時のボディはF3PとFE2、予備のもう1台のF3Pは持ち歩かないでホテルに置きっぱなしにする。今回は人物撮影が少ないため、全てモータードライブは外して日本に置いていった。これが後で大変なことになるとは思っても見なかった・・・(汗)。
最初の取材でパンチボールの丘を撮影していたときだ、FE2が壊れた。巻き上げができなくなり、フィルムを巻き取り裏蓋を開けたらシャッター幕がグシャグシャになっていた。あと19日間の撮影を2台のF3Pでやらなくてはならない。
パンチボールの丘はハワイの墓地である。それを撮影しているときにカメラが壊れたのだ。僕は霊魂とか怨念とかいっさい信じないが、時々こんな事が起こる。もう一度は、「陰陽師」がブームだったとき、1冊のムックのため全国のゆかりの地を撮影していた。安倍晴明が芦屋道満の首を切りその首を洗ったとされる「おつけ場」を撮影しようとしたときニコンF5が完全に動かなくなった。バッテリーを入れ替えても、スイッチを入れなおしてもいっさい動かない。電気式カメラはこんな時どうすることも出来ない。このときはメカニカルカメラのニコンFM2/Nをサブカメラとして持っていてこのカメラで撮影することができた。ホテルに戻って確認したときにはF5はすっかり直っていた。いまだに原因はわからない。F5がこんな状態になったのは後にも先にもこのときだけだ。
ハワイの撮影も三分の二ほど過ぎた頃、ワイキキビーチの全景を撮影するためヘリをチャーターして空撮を敢行した。窓越しに撮影するとアクリルガラスのせいで写真の画質が落ちるため片側のドアーを撮影用に外してあるヘリに乗りこみ、安全のため身体にハーネスをつけ、機内のフックに繋ぐ。カメラバッグは落ちないように座席にシートベルトで固定、いざヘリポートからワイキキに向かって飛び立った。
ワイキキまでの僅かな時間、何気なくカメラを裏返して底を見て愕然とした。ほんとにビックリしてまばたきもできなくなった。
カメラの底に穴があいている。
その穴からフィルムカートリッジが見える。
何故かはすぐ理解できた。モータードライブをはずした穴だ。
外付けモータードライブから、フィルムを巻き戻すための軸がカメラボディの中に入るための穴がある。モータードライブをはずしたときにはその穴をふさぐための金属の蓋がある。
今まで必ずモータードライブを使っていたため、F3Pからモータードライブをはずして使ったことがなかった。そんなことはすっかり忘れて、「蓋」は東京に置いてきた。
とにかくその場は冷静に、身体に紐が付いたまま、シートベルトで固定されたカメラバッグに手を伸ばし、ハレ切り用の黒い紙を探して10円玉くらいに切り取り、サイドポケットに入っているパーマセルテープを手でちぎりその黒い紙であいた穴をふさいだ。
その後で、額から冷や汗が出てきた。今まで撮影した全ての写真が「だめ」かもしれない。穴からの光線漏れで全て感光してしまったかも知れない。
そう考えたとたん、地に足がついた気がしなかった、ってそんな冗談を言っている場合ではない。
程なくヘッドホンから通訳の声が聞こえた。「まもなく撮影地に着きますよ」
アラモアナ側からダイヤモンドヘッドに向けて撮影しながら飛んで行く。高度やビーチからの距離を通訳を介してパイロットに指示、何往復かしてフィルム数本撮影、その後アラワイ運河側に回って空撮は終了した。
続けて地上での撮影があったが、コーディネーターに空撮用と機材が違うからと嘘を言ってホテルにいったん戻った。
部屋に戻り、さっきの応急処置を剥がし、厚紙をマジックで黒く塗り、2重にして穴の形に丸く切り、テープも2重に貼り完全密閉した。
撮影済みフィルムは昨日までとそれ以降をしっかり分け、次の撮影に向かった。
小刻みな震えが止まらなかったが、気分を取り直した。
もしかすると、昨日までの撮影は全てだめかもしれない。最悪、自費でもう一度きて撮影し直そう、そう考えて半ば諦めていた。
ふた |
東京に戻り、日にち別に分け番号をふってある200本のフィルムから1日1本ずつ抜き出して20本をテスト現像に出した。
青山のH現像所から離れることができず、現像が上がるまでの2時間、近くのファーストキッチンで待っていた。
結果は全て問題なかった。
帰ってきてからすぐ確認したのだが、穴の内側はスプリングでフィルムカートリッジを押さえつけるようになっており、さらに遮光を考えた段差があって光線漏れ対策がなされていたのだ。
きっとニコンはこんなミスも考えてしっかり作ったんだろうな〜。
ニコンF3Pとのつき合いは新機種ニコンF4が発売されて購入した1989年までの7年間続いた。その後は裏蓋をポラロイドバックに交換したポラカメラとしてフィルム撮影が続いた間ずっと使い続けた。
2005年からは100%デジタル撮影に移行し、F3Pの役割は終わった。
[P]がプロカメラのマーク |
ちなみに、F3P以降のフラッグシップ機、F4、F5ではプロ対応の小改造を引き受けていたが プロと銘打った[P]モデルは発売されなかった。
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