2013年7月16日火曜日

僕のお気に入り「Ai AF ニッコール70-210 F4S」


AF ニッコール70-210 F4S
久々にこのレンズを引っ張り出してみた。

ニコン初の本格的なオートフォーカス一眼レフカメラ「ニコンF-501」の発売に合わせて、1986年に発売したAFニッコールレンズの最初期のレンズだ。レンズ構成は直前まで販売されていた「ニコンレンズシリーズ E70-210mm F4」と全く同じで、AFカメラの発売に合わせて大量のAFレンズを供給しなければならないため多くのレンズはAisレンズが流用された。
当時は「Aiニッコール80-200mmF4S」も同時に販売されていたが、「ニコンレンズシリーズE70-210mmF4」は低価格であるが、描写に関しての評判が良くヒットレンズであった。そのためAisレンズを差し置いてAFレンズに採用されたものと思われる。しかし、AFレンズとしての寿命は短命で、1987年半ばまでの約1年で「AFズームニッコール70-210mmF4-5.6S」にバトンタッチした。

80-200や70-200のズームレンズは望遠ズームの花形レンズであるが、何故このレンズが短命だったかを今回このレンズを改めて引っ張り出して考えてみた。
同スペックではコンパクトだし、画質は今回試しに写してみても十分満足のいくものだった。


考えられる問題点は、フォーカシングが前群繰り出し式で回転角も大きく、繰り出しに時間がかかる事だろう。無限遠から最短撮影距離の1.5mの先の(M)マクロまで約180° 専用フードを付けた状態で往復する様はとても「スムースなフォーカシング」とは言えない。そこでAF用に新設計した「AFズームニッコール70-210mmF4-5.6S」に切り替えたのだと思うが、このレンズは210mm時に開放がF5.6になり、僕にとってはあまり魅力的ではなかった。

最近発売になった「AF-S NIKKOR 70-200mm f/4G ED VR」で思い出して引っ張り出した「Ai AF ニッコール70-210 F4S」だが、VRは付いていないがその分全長が約3cm小さく、90g軽い。ナノクリスタルコートではないが、特に強い逆光でなければ問題になることはない。問題のフォーカシングだが、ピントを探して行ったり来たりすることがなければそれほど時間もかからない。つまり、1.5mと10mに交互にピントを合わせるような過酷な動作をしない限りフォーカシングも特に問題にはならない。

現在は、グラビア系ロケ撮影は「Ai AF-S NIKKOR ED 80-200mm F2.8D(IF) 」がメインレンズなので、2本のレンズの重さを比較してみると半分以下の760g、これなら手持ち撮影も可能だろう。

「Ai AF ニッコール70-210 F4S」を買う前から使っていた「レンズシリーズ E 70-210mm F4」はニコンF3とセットで様々な仕事で使用した。当時テレビ番組雑誌の仕事が多く、テレビスタジオでドラマ収録中に俳優のアップを撮影するのにこのレンズを使っていた。ドラマの照明下で撮影するためフィルムはタングステンタイプのポジフィルム、プラス1増感しても早いシャッターは切れない。この頃は210mmでシャッタースピード「1/15」までなら手ぶれしない自信があった。「AF-S NIKKOR 70-200mm f/4G ED VR」には「VR」が付いており「4段分の手ぶれ補正効果」が期待できる。当時このレンズがあったなら「1/15」の4段分、「1秒」でも手ぶれしなかったのか・・・。
ま~今でも腕は衰えていないので、「AF-S NIKKOR 70-200mm f/4G ED VR」は当分お預けにして、次の撮影で「Ai AF ニッコール70-210 F4S」をメインで使おうと思う。

皆さんも中古レンズでこのレンズを見かけたら、ぜひ手にとってみて下さい。
僕はお薦めします。

ちなみにこの写真に写っているフォーカスリングはオリジナルではありません。
僕がMF操作向上にため自分で付けたゴムリングです。 

                    レンズ構成 最短撮影距離 フィルター径 大きさ   重さ
Ai AF NIKKOR 70-210 F4S          9群13枚  1.1m(M)   62mm   76.5×148 760g
AF-S NIKKOR 70-200mm f/4G ED VR    14群20枚  1m       67mm   78×178.5 850g
AiAF-S Nikkor ED 80-200mmF2.8D(IF)14群18枚  1.5m             77mm   88×207  1580g



2013年7月7日日曜日

ライカレンズを全部買う その6 「さらに超広角21ミリ」



スーパーアンギュロン

 ライカMシリーズの内蔵レンジファインダーがカバーしているのは広角28ミリから望遠135ミリまでである。この28ミリをカバーしたのはM4-P以降で、M3は50ミリまで、M2・M4が35ミリまででM4-P・M6で28ミリファインダーが内蔵された。
 それ以降でも21ミリは外付けファインダーでフレーミングをしなければならない。ライカMシリーズで28ミリ以上の広角(24・21)ファインダーフレームを内蔵したカメラは出ていない(コシナ製ベッサには21ファインダー内蔵Mマウントカメラがある)。

 内蔵ファインダーでピントを合わせ、外付けファインダーでフレーミングをするという面倒な作業をライカ使いはバルナックタイプの頃から強いられていたのだ。
 現実には外付けファインダーが必須なのは24ミリと21ミリ、現在は18ミリがあり、それとホロゴン15ミリで、全て被写界深度の深い超広角レンズであるので、「置きピン」で撮影すればフォーカシングの手間は省くことが出来る。ベテランのライカ使いは、フォーカスレバーの位置でだいたいの距離を覚えていて「人差し指がこの辺で3m、ココまで来ると1.5m」等と指の感覚でピント合わせをするので、ピント合わせにさほどの不便を感じていないと思う。

 そして、ライカ純正の外付けファインダーの素晴らしさは前回書いた通りである。
そこで僕が、28ミリの次にねらいを定めた超広角が21ミリであった。
その頃はアスフェリカルのエルマリート-M21ミリF2.8がライカ現行品であったが、当然めちゃくちゃ高い。「古い」「暗い」「ぼろい」を我慢すれば「安い」ライカレンズが手に入ることがわかっているので、最初に探したのが「スーパーアンギュロン21ミリF3.4」であった。このレンズはまだライカが21ミリ超広角を製造できない時代に、同じドイツの光学メーカーシュナイダー社が製造したものだ。それ以前にも同じくスーパーアンギュロン21ミリF4がLマウント、Mマウント両マウントで出ているが、こちらは製造本数が少なくレアなため、数が多く出ているF3.4の、さらには後期型のブラック仕上げをネットで探し、最安値のものを10万円ほどで購入した。さらに外付けファインダーも探してプラスチック外装のものを2万円ほどで購入した。

 レンジファインダーカメラを使う最大のメリットは広角レンズにある。
マウントからフィルムまでの距離、すなわちバックフォーカスの長い一眼レフ用広角レンズと、ボディ内部にミラーなどがないため、マウントからフィルムまでの制約を受けずに設計が出来るレンジファインダーカメラ用広角レンズを簡単に分類すると、
レンジファインダー用広角=対称型広角レンズ
一眼レフ用広角レンズ=レトロフォーカスタイプ
と分けることが出来る。

マウント面からボディ内にレンズが深く入り込む
対称型広角レンズとは、
レンズ群中央部にある絞りを挟んで被写体側のレンズ構成と、フィルム側レンズ構成が対照的である。
これによって利点として「線対線対応」が保たれ直線が直線として描写される=歪曲収差を軽減することが出来る。他には全体として小型化が可能である。
欠点としては周辺光量の低下があげられるが、これは絞り込むことによって改善が望める。

最初期のニッコール20ミリF3.5
対する一眼レフ用広角レンズ=レトロフォーカスタイプは
ボディ内の可動ミラーをさけるためレンズ群全体をボディの外に構成しなくてはならないため、最前部に強い凹レンズを配する必要がある。このタイプを逆望遠タイプ(インバーテッドテレフォトタイプ)と称し、このタイプを最初に商品化したアンジェニュー社の製品からレトロフォーカスタイプと称することが多い。

 欠点としては、明るさを確保するためにはこの凹レンズの口径を大きくする必要があり、レンズが大型化してしまう。絞りを挟んだ前群と後群の構成が大きく異なるため歪曲収差が除去しにくく、樽型に歪む歪曲収差が残りやすい。
 利点としては周辺光量の低下を防ぐ事が出来るため、対称型広角特有の周辺光量低下がなく、画面全面に均質の明るさが保たれる。そしてこの部分を欠点・利点と言うより、2つのタイプの広角レンズの「違い」と捉えることが出来るのだ。

 対称型広角レンズのスーパーアンギュロン21ミリF3.4は周辺に行くにつれ光量が低下する「広角らしい描写をする」素晴らしいレンズなのだ。
一眼レフ生まれ、一眼レフ育ちの僕はニッコール28ミリF2の描写が28ミリの描写だと思い込んでいた。それが、ミノルタCLEの28ミリF2.8で撮影した写真を見て「これぞ広角レンズの描写」と思った要因はこんなところにもあったのでと思う。
 レンズの描写にも充分満足した「スーパーアンギュロン21ミリF3.4」であったが、僕のレンズは「黒」レンズで、フォーカシングレバーが固定式であった。聞くところによると、シルバー仕上げの初期スーパーアンギュロンのフォーカシングレバーは無限遠ストッパーが付いているという。これも欲しくなり、外観キズ有りのシルバー仕上げと専用フード12501を追加購入。あわせて12万円ほど。
スーパーアンギュロンとフード、ファインダー

ところで、このスーパーアンギュロン気を付けないと、初期ものはライカM5には取り付けられない。M5の測光アームがレンズ後端にぶつかってしまうからだが、製造番号2473251以降のレンズはM5の測光アームが出ないように工夫されている。
それと、M6以降の露出計内蔵ボディに付けても測光路をレンズ後端が遮ってしまうため測光できない。
そんな不具合に対応したライカ純正21ミリレンズが1980年に発売されたエルマリート-M21ミリF2.8である。
ライカM6にスーパーアンギュロン21ミリを付けた場合のシミュレーション

1)被写体を発見して外付けファインダーでフレーミングをする
2)内蔵ファインダーを覗いてピントを合わせる(慣れればこの手順は省くことが出来る)
3)単体露出計を用いて露出を測る
4)測った露出(絞り値)をレンズに合わせる
5)外付けファインダーを覗いてシャッターを切る

正確な測距・測光を求めると、こんな手順を踏まなければならないことになる。
ならばと、エルマリート-M21ミリF2.8を買ってしまった。
このレンズはレンジファインダーカメラ用だがボディ内のめり込みを減らすためにレトロフーカスタイプを採用している。そしてライカ純正最初の21ミリレンズである。
このレンズを使いM6で撮影する場合のシミュレーション

1)被写体を発見して外付けファインダーでフレーミングをする
2)内蔵ファインダーを覗いてピントを合わせ、絞りを加減して露出を合わせる
3)外付けファインダーを覗いてシャッターを切る

このようにスナップ性が格段に向上する。
しかし、描写はスーパーアンギュロンのほうが確実にシャープな写りである。特にエルマリート-M21ミリを開放付近で使うと、中心部は問題ないが周辺部は何となくシャープさに欠けモヤッとした描写になる。もちろん少し絞れば描写は格段に良くなり、周辺光量低下も少なく使いかっては格段に向上する。

そんなわけで、21ミリレンズは3本。
これで、「ライカレンズを全部買う」顛末は、
「その1」コンタックスG1がカバーしていない90ミリ以上の望遠をカバーしようと購入した「エルマリート135ミリF2.8」に始まり、135ミリ2本。
「その2」35ミリ数えきれず。
「その3」50ミリ数えきれず。
「その4」90ミリ6本。
「その5」28ミリ2本。
「その6」21ミリ3本。
純正ライカレンズの中の15ミリ(ホロゴン)、24ミリ、75ミリを除いて30本ほどを購入し、ほとんど満足して僕の興味はハッセルブラッドへと移っていた。現在はトリエルマーなどの多焦点レンズ、18ミリ、90ミリマクロなど更なる展開をしているライカレンズだが、その後は僕のライカレンズは増えることなくとどまっている。さらにはカールツァイス製Mマウントレンズ、コシナ製、フォクトレンダーブランドなどMレンズはとどまるところを知らない展開を続けて行く事だろう。

「ハッセルブラッドを全部買う」を書く機会が訪れるかわからないが、「ライカレンズを全部買う」シリーズはいったん終了。


2013年1月6日日曜日

ライカレンズを全部買う その5 [超ワイドはどうか?]


正面にCANADAと書いてあるエルマリート28
 前回の[90ミリの巻]のあとだいぶ間があいてしまいましたが、
今回はライカレンズの超ワイドの話。

 ライカがレンズ交換式バルナックタイプをだした頃から、標準50ミリ、広角35ミリ、望遠90ミリは3本のレンズで「ライカの標準セット」ような組み合わせであった。

 35ミリより広角レンズが出たのは、1930年頃に発売された広角35ミリから5年ほど後、当時としては超広角レンズ「ヘクトール2.8cmF6.3」が発売、超広角時代が始まったのだ。
 そして、F6.3という超暗いレンズはその後、20年の時を経て「ズマロン28mmF5.6」になる。半絞り明るくなるのに20年、いかに当時超広角レンズの設計が難しかったかを物語っているかのようだ。
 この2本はLマウントだが、Mマウントの28ミリは「M3」が発売になって11年後の1965年「エルマリートM28mmF2.8」が発売されやっと明るさがF2.8になった。
 そしてライカMマウント28ミリはエルマリートF2.8がレンズ構成を変えながら延々と唯一の28ミリとして販売され、明るさがF2の「ズミクロンM28mmF2」が発売されたのは2000年になってからである。

 僕が最初に買ったライカ用28ミリは「ミノルタCLE用 M-ロッコール28mmF2.8」だった。ボディは当時ライカは持っていなかったので「ミノルタCLE」。しかし、このレンズのおかげで僕は一眼レフ用28ミリとレンジファインダー用レンズの明らかな違いに気付いてレンジファインダーカメラにのめり込むきっかけになったのだ。
 その後ライカM6を購入してもしばらくの間、このM-ロッコール28mmF2.8を気に入って使っていた。
 ただし、要注意なのはM6に付けても28ミリのファインダーフレームが表示されないこと。もともとミノルタCLE用なので、ライカに付けると35ミリファインダーが表示されてしまう。
 なぜこうなったかと言うと、ライカはレンズマウント部の爪の長さを焦点距離毎に微妙に変えていて、この爪でファインダーフレームを切り替える機構になっている。そして、ライカでは28ミリと90ミリがセットでファインダーフレームが表示される。ミノルタCLEは40ミリと、28ミリ、90ミリの3本のレンズが供給され、レンズ交換毎にそれぞれのフレームが表示される。ライカの機構を模してはいるのだが、ライカの通りにすると28ミリと90ミリでフレーム切り替えができないため、28ミリには35ミリフレームに対応する爪を使った。そのため、CLEでは28ミリフレームが出るが、ライカに付けると35ミリフレームが表示されてしまう。ファインダーを覗くたびにファインダー切り替えレバーを倒して28ミリフレームを表示しなくてはならないのだ。
 でも、実際はM6の28ミリフレームはメガネをかけている僕にはすごく見え辛く、フレーム全体を見るには接眼部に思いっきりメガネを押し当てないと見えなかったのだ。そしていつしか、レバーで28ミリに切り替えることなく、ファインダーに自然に目を押し当てて、見える全視野が28ミリ相当だと気付いて問題なく使えるようになった。
 次に購入した28ミリは、これも日本製「アベノン28mmF3.5 - Lマウント」にMマウントアダプターを付けてM6で使った。だいぶ後になってやっと第4世代「エルマリートM 28mmF2.8」を購入したが、アベノン28ミリはどうしても手放せず結局エルマリートより出番が多かった。
理由は、
決してアベノンはエルマリートより写りがいいわけではない。
周辺光量落ちがかなりある。
F8まで絞ってもまだ気になるくらいだ。
でも、使った理由は。
 レンズが薄いので、ファインダーを覗いたとき、一切ケラレが無く、前述の方法で全視野が見渡せるのだ。
 では、ライカ エルマリート28ミリF2.8は、
レンズがでかいので、鏡胴がファインダー視野を遮ってしまい、画面の右下 1/4程が全く見えなくなるのだ。フードなんか付けたら完全に 1/4見えなくなってしまう。
このフードも、いかがなものか
そんなわけで、
アベノンをF11まで絞って使っていたのだが、あるとき、ライカの外付けファインダーに出会ってしまいアベノンを卒業した。
ご存じライカの『高い』外付けファインダーだが、うっかり覗いてしまって、とりこになってしまった。
 『明るい』思わずこう叫んでしまった上、即購入。
ファインダーってだいたい暗くなるものでしょう?
でもライカの外付けファインダーは覗くと外より中の方が明るいのだ。嘘だと思うなら覗いてみて!

正面にLEITZと書いてあるが、CANADA製
そんなわけで、
M6に「エルマリート28ミリF2.8」を使うようになってから、同じ世代で「LEITZ」表示のものと、「LENS MADE IN CANDA」のものを2本買ってしまった。
どっちもカナダ製で、写りに変わりはありませんでした。

2012年3月29日木曜日

ライカレンズを全部買う その4 [90ミリの巻]

前回書いた50ミリはライカの標準レンズである。何が「標準」なのか?
最初のライカ(1925年発売Leica I )についていたレンズが、ライツ・アナスチグマット50ミリF3.5だったので50ミリが標準レンズと呼ばれるようになった。
小型カメラの始祖と呼ばれるライカが基準になったものが結構ある。そもそも35ミリフィルムサイズの24×36ミリの画面サイズのことをライカ版という。
現在のデジタル一眼レフの「フルサイズ」と呼ばれるものも、このライカ版の24×36ミリが基準になっている。

で、50ミリを標準としてそれより焦点距離の短いものを「広角レンズ」(40ミリ位までは標準レンズに含まれるので35ミリ位からが広角レンズと呼ばれる)焦点距離の長いものを「望遠レンズ」という。
たとえば、100ミリの望遠レンズは、100÷50=2 なので2倍の望遠、500ミリだと、500÷50=10 なので10倍の望遠レンズになる。
10倍の望遠レンズで撮影すると、10メートルの距離にあるものが1/10の1メートルの距離にあるように写る。
今は一眼レフで300ミリの望遠レンズくらいは当たり前になってしまったので、望遠と言っても135ミリが限度のレンジファインダーにおいては望遠レンズはあまり人気がない。
一眼レフに300ミリを付けてのぞくと6メートルの距離にいるライオンが1メートルの距離にいるように拡大されて見えるけれど、ライカに135ミリを付けてのぞいてもちっとも拡大されず、ファインダーのフレームが小さくなるだけ。なので、あまり人気のないライカの「望遠レンズ」が今回のテーマ。
ライカの90ミリについて。
確か僕が最初に買った90ミリは「エルマー90ミリF4 沈洞式」だったと記憶している。レンズとしては1830年代からある物で、スクリューマウントの太鏡胴から細鏡胴、Mマウントと外装の変遷があった後、同じ3群4枚のレンズ構成の物を沈洞させてコンパクトに収納できるようにしたものだ。仕掛けも凝っていて、完全にレンズを使用状態まで引き出さないとピントリングが回らない構造になっており、うっかり沈洞したまま撮影することを防いでいる。古い設計のレンズなので比較的柔らかな描写でクラシックな写りだ。沈洞すると50ミリと同じくらいの大きさになるのでM3に付けっぱなしにして良く持ち歩いた。
次に購入したのが「テレエルマリートM90ミリF2.8」の後期の4群4枚構成のもの。エルマーに比べるとシャープでコントラストも高く写りの性格の違いがハッキリしている。外観は細身で「テレ」が付くレンズ構成のせいかとてもコンパクトで50ミリ標準レンズと見まごうほどの小ささだ。
さらに一つ前の「テレエルマリート90ミリF2.8」に初期5群5枚構成レンズが気になりネットで探してみた。こちらのレンズは比較的短命で、すぐに4群4枚構成に切り替わっている。比較的レアな為4群4枚より高価である。見た目には太めのレンズなので「ファット」と呼ばれ後期と区別されている。前期と後期を撮り比べた事はないが前期の方が柔らかな描写をするような印象がある。
この「ファット テレエルマリート90ミリF2.8」が90ミリの中では一番気に入っており、出番が最も多い。
次に購入したのが「エルマーC90ミリF4」
このレンズはライカCL用に販売されたもので、他のMボディに付けるとピント精度に問題が出る場合があるという。
僕のM6は2台とも問題なくピントは合致した。M3の時代にはボディのピント精度調整のため距離計連動コロを左右に動かして調整した物があるらしく、その場合には問題が出ることが多いようだ。以前ミノルタCLE用に購入した「ロッコール90ミリF4」と基本構成は同じはずだがロッコールは売ってしまい、ライカCLを購入したので、それに合わせて再度買ってしまったわけだ。

「エルマー90ミリF4 沈洞式」
「テレエルマリートM90ミリF2.8」
「テレエルマリート90ミリF2.8」ファット 
「エルマーC90ミリF4」

これだけあれば90ミリは充分だろうと思う。他には「ズミクロン90ミリF2」があるが、明るいが、重くて高いので興味なし。
ところがある日、
第二次大戦直後、ドイツからのレンズ供給が不足した為 Leitz New York が企画しアメリカのウォーレンサック社が製造したレンズがあることを知ってしまった。
「ウォーレンサック ベロスチグマット90ミリF4.5」である。
ウォーレンサック ベロスチグマットには50ミリ、90ミリ、127ミリの3種類あったようだが興味を持ったのが90ミリF4.5である。
ネットで探してみると、比較的簡単にしかもそれほど人気はないようで、値段も安かった。
安さに惹かれてアメリカから入手した「ベロスチグマット90ミリF4.5」は、鏡胴はスクリューマウントのエルマー90ミリと同じデザインで[Leitz New York]の刻印がある。安かったせいもあるがレンズの程度があまり良くなくスリ傷が多い。コーティングの問題もあってか写りはフレアーっぽいものであった。
おそらく「ウォーレンサック」のせいではなく個体差の問題だと思う。

そして、その個体差の問題を見極めるため「ウォーレンサック ラプター90ミリF4.5」もその後購入した。
ラプターはベロスチグマットの後期の物で名称を変更しただけでレンズはまるで同じものだ。

そんなわけで、
90ミリは6本。
最後に購入したラプターに関してはまだ一枚も写真を撮っていない。
なので『「ベロスチグマット」と「ラプター」両ウォーレンサックレンズの個体差による描写の比較』に関しては謎である。

まだまだ続くぞライカレンズ。

2012年2月14日火曜日

夢追いカメラマンさんへ〜元妻からの返信メール〜

夢追いカメラマンさんへ

返信遅くなりました。
離婚届受け取りました。

今日の東京は晴れています。
あまり気持ちが良いので新宿駅から地下鉄に乗らず、仕事場まで歩いてきました。
途中、中央公園のベンチで一休みをし、青空の写真などを撮りました。

5年位前でした。
あなたに「私も写真撮ろうかな・・」と言ってみたら、すぐに買ってくれたカメラがニコンの「クールピクスP5000」でした。
あなたは携帯電話やコンパクトデジカメで手を伸ばして写真を撮るのが大嫌いで、私が「なるべく小さなカメラがいい」と言ったにもかかわらず、
「ファインダーをのぞくタイプのカメラじゃないと許せない」と、買ってくれたのでしたね。
コンパクトデジカメにしては中途半端に大きくて、ほんとはちょっと気に入らなかったんですよ。
「1日1枚でいいから、毎日撮れ」とあなたに言われ、最初は頑張ってみましたが、1ヶ月ほどでへこたれてしまいました。
その、P5000も古くなったので、新しく出た「ニコン1 V1」を買いました。
あなたのこだわりのファインダーをのぞくタイプの方です。
レンズは「10ミリF2.8」にしました。
なるべく小さなカメラが良かったのに、また中途半端に大きいのを買ってしまいました。
でも、中央公園の青空がとてもステキに撮れました。

「オーロラの撮影は順調」とのこと、何よりです。
あなたの会心の作品をぜひ見てみたい・・・。

私の仕事は、順調です・・・とは言えません。
去年の業績はかなり落ちました。
商社に勤めていたときは「自分の能力が生かされていない」と感じ、思い切って大学院に入り直し、
念願の経営学修士を取りました。
そして、大学院の同期5人でコンサルティング会社を設立し、代表に就任し、やっと自分の能力を活かせる、
と思っていたのですが・・・
2人が辞めてしまい、今は現状維持が精一杯の状況です。
何度も「どこかの企業に勤めようか」「もう辞めてしまおうか」と思いました。
その度に思うのはあなたのことで、
「全部辞めて、スウェーデンのあなたのもとに飛んでいこう」と・・・・。
でも、それが自分にとっての逃げ場になっていることに気付きました。
「ダメだったらスウェーデンに・・・」
それがダメな理由だ、と気付きました。

私から離婚を切り出したのはそんな理由です。

もう逃げるところが無くなったので、気分一新とことん仕事に打ち込めます。

この間、ネットで見つけた記事にこんなのがありました。
オーストラリアの看取りの看護師さんが聞いた、死を間近に控えた人々が口にした後悔の中で多かったもの
1. 「自分自身に忠実に生きれば良かった」
2. 「あんなに一生懸命働かなくても良かった」


私はあなたが羨ましくてしょうがありません。
あなたは好きなことを見つけ、最初から好きな事をやっているでしょう?
自分のやりたいことをして、それで生活が出来る。
これって理想で、これが人の本来のあり方で、でもなかなか出来ない。
でも、あなたはそれで生きているのよ。

それができる人は幸せです。
でも、あなたは出来ている。

あなたは私のあこがれです。

仕事が順調になって、
忙しくてしょうがなくなったら、
むりやり休暇を取って、
スウェーデンに行きます。
それまでそちらで頑張って下さい。

あなたにプロポーズされた11年前のように、
「自分が輝いている」
と思えるようになったら、
逢いに行きます。

泣き虫、弱虫女より


※この手紙はフィクションです。
※人物は実在しません。
※モデルもいません。
「ナースが聞いた「死ぬ前に語られる後悔」トップ5」
http://youpouch.com/2012/02/06/53534/

2012年1月25日水曜日

オーロラに夢を懸けたカメラマン 〜極北のダメ男のメール~

[ 送信 ]ボタンを押す前にもう一度全文を読み返してみました。
メールとはなんと便利なのでしょうか。電話は架け辛い、手紙を書くのは重すぎる、そんなときでもメールだとなんの負担も無く書けるような気がします。
そんなわけで、とりとめのない長い文章になってしまいました。
1人の女性をも幸せに出来なかったダメ男が書いた愚痴っぽい文章なので、以下の本文は読まなくてもいいです。
書類は明日送ります。

10年間ありがとう。
さようなら。

本文:
思えばこの極北の地に移り住んでからもう3年になります。
オーロラの撮影は順調です。この時期は空気が澄んでいるのでかなりいい感じで撮影が出来ています。
君に2年前に送ってもらった「ニコンD3」のおかげで快適に撮影が出来ます。それまではD200を使っていたので高感度撮影時のノイズが気になっていました。D3はISO 800でも一切ノイズが出ずISO 6400まで感度を上げることが出来るので助かっています。そう言えば今度「ニコンD4」が発売になるようなので16メガピクセル、ISO 204800でぜひオーロラを撮影してみたいな。
動画機能もかなり期待できそうです。
1〜2年後には何とか買いたいな。
今思えば2年前に「ニコンD3」購入資金を捻出するために「Aiニッコール16ミリF2.8s」を手放してしまったことを後悔しています。君にはわからないと思いますが、180°の画角で天空を写すことが出来る魚眼レンズです。マニュアルフォーカスレンズなので、いずれはオートフォーカスの魚眼レンズを買おうと思いつつ、いまだに買えません。
昔、若くて、貧しい夫婦がクリスマスプレゼントに、夫は妻の美しい長い髪を留める髪留めを、妻は夫のお気に入りの懐中時計の鎖を買って帰ったところ、妻は髪を切って売って鎖を買い、夫は時計を売って髪留めを買った。お互いにもらった物を使う場所を失っていた。
そんな話を思い出してしまいました。

つまらないことを書いてすみません。
オーロラの写真は売れています。インターネットのストックフォトサイト3ヶ所に登録していて、オーロラ以外の写真も含めて合計で約5000枚の写真を販売しています。こんな地球の果ての町にいても、世界に向けて写真を販売できるなんて、僕がカメラマンになった15年前から考えると夢のようです。
登録しているストックフォトサイトは世界をネットしているので日本でも僕の写真が買えます。今のところコンスタントに毎月15万円ほどの売り上げがあるので、1人で生活する分には何とかなっています。
オーロラにはまったのは君と2人でスウェーデンを旅した時でしたね。君の友人であるリチャードとヘレナを訪ねてストックホルムに行き、冗談半分に「オーロラの写真が撮りたい」と僕が言ったのがきっかけでした。9月のスウェーデンでオーロラが見えるわけがないと思ったのに、リチャードが「そんなことはない。北極圏に行けばこの時期でもオーロラが見える」と言い張り、詳しく調べてくれたのがきっかけでした。
パリに行く日程を変更し、リチャードが調べたキルナに3日間滞在し、ラッキーにも撮影に成功したとき僕は有頂天になりました。まだフィルムで撮影していたので、東京に戻ってラボから現像が上がってくるまで心配でしょうがなかったことを思い出します。さらにその写真がストックフォトで売れて、新宿西口のビルボードに12メートルの大きさで掲示されたとき「これは僕のライフワークだ!」と思ってしまったのです。
しばらく経ってからこの思いが僕の中でどんどん大きくなり、君に打ち明けたとき「寒いからいやだ!」と一蹴されたときは力が抜けてしまいました。
それはそうですよね、君が経営しているコンサルティング会社も順調に業績を伸ばしているのに「僕の夢に付き合って北極圏に移り住んでくれ」と言っても、付き合ってもらえないことはわかっていました。ただ僕は英語が出来ないので、英語が堪能な君が一緒に来てくれれば、撮影も生活も順調にいけると思ったのです。
今ではもうだいぶ慣れて、かたことの英語と地元の言葉で何とかやっています。
そう言えばリチャードが、日本人のオーロラ観測ツアーのガイドの仕事を探してきてくれて、1ヶ月に2回くらいガイドの仕事もしています。

わかっていても、さすがに離婚届の用紙を受け取ったときにはショックでした。
3日間ほど放り投げて見ないようにしていましたが、ちょっと日本がなつかしくなって、YouTubeで日本の音楽を探していて、うっかり「さだまさし」の「風に立つライオン」を押してしまいました。この曲は日本人の青年医師がアフリカで医療活動に従事しているとき、日本に残した恋人から結婚したとの手紙をもらい、その返事の手紙が曲になっています。実話にもとづいていると知り、聴きながら涙があふれました。3回聞きましたが、3回とも泣きました。その青年医師と自分を重ね合わせたわけではありません。かたや医者で志高く、多くの人に望まれて仕事をしているのに、僕は誰に望まれたわけでもないのに、勝手に1人で好きな事をしているだけで、志などないですから。
何で泣けるのか考えてみましたが、ただただ情けない自分に泣けたんだと思います。
でもこの曲を聴いて吹っ切れました。
離婚届は明日発送します。

これで僕には、東京に帰る場所が無くなってしまいました。
あ、僕の荷物は札幌の母のところに送っておいて下さい。
お手数かけます。
母にはこの件を連絡しておきます。
リチャードとヘレナには僕から話しておきます。こちらでは籍を入れない夫婦がほとんどですからあまり気にしないと思います。

あと2年くらいこの地で自分の夢を追いかけてみようと思います。
 僕は「風に向かって立つライオン」ほど志も、使命も、格好良さもありません。
 では、何故写真を撮っているのかを考えてみました。
僕らは子供を持ちませんでした。
後世に継ぐ物は何もありません。
せめて、自分が撮った写真を残したい。
自分の納得出来る物を、後の世に残したい。
それがこの時代に、1人の人間が、男が、生きていた証となるような・・・
そんな写真が撮りたい・・・

極北のダメ男より


「風に立つライオン」さだまさし
↑ ここを押すと曲が聴けます。
※この手紙はフィクションです。
※人物は実在しません。
※モデルもいません。

2012年1月7日土曜日

ライカレンズを全部買う その3 [50ミリがいっぱい]

「ライカレンズって良いの?」ライカに全然興味のない方からこんな質問を受けることがある。
単純に画質に限って言えば「現代の日本製レンズの方が良い」と言えるだろう。
また金額のことを考えてもとてもおすすめできる物ではない。
ちなみにライカレンズ 「ズミルックスM 50ミリF1.4」の新品価格 400,000円ほど。
「Aiニッコール50ミリF1.4s」の新品価格 40,000円ほど。
10倍の価格差があって、写りが特別に良いのでなければ、なぜライカレンズを買うのか?
ブランド?
歴史?
理由、というより言い訳をいろいろと考えてみたが、上手く説明が出来ない。

僕が持っているライカレンズは全部中古レンズだ。古い物では70年、比較的新しい物でも20年前の中古で、しかも外観の程度の悪い物を狙って格安で購入した物だ。
もともと高価なライカレンズでも「暗い」「ぼろい」「古い」のいずれか、または全部を我慢すればかなりを安く買う事が出来る。
僕はこの3つを我慢して次々とライカレンズを買った。

デュアルレンジの2重カム
今回は50ミリの話。
「ライカレンズを全部買う その1」にも書いたが、最初に購入した50ミリは「デュアルレンジ ズミクロン50ミリF2」。
このレンズの高画質と、遠距離と近接撮影を可能にしたデュアルレンジの仕組みにはライカレンズにのめり込む魔力があった。

沈胴した状態の裏側
ライカのレンズは単にピントリングと絞りリングがあるだけではない「仕掛け」のあるレンズがある。デュアルレンジの次の購入した50ミリは「沈胴」式の「エルマー50ミリF2.8」だった。沈胴式とは、収納時にはレンズがボディ内に収まり、使用時には引き出す方式の物で、ライカの得意な方式のレンズだ。このレンズもLマウントに始まり、Mマウントfeet表示、Mマウント[m・feet]併記の3本を購入した。暗いレンズに属する3群4枚構成のシンプルレンズで画質はズミクロンほどではない。暗いレンズだけに開放から申し分のない画質だが、絞っても画質が向上することもない、可もなく不可もない、コンパクトな「標準」的レンズだ。さらに沈胴にはまってLマウントの「エルマー50ミリF3.5」を5〜6本買った。このレンズも歴史が長く1924年から1959年まで36万本ほど製造されたようだ。戦前、戦後、ニッケル、クローム、メートル、フィート、絞り表示の違い、さらに深度表示が赤い「赤エルマー」など様々あるが、古い物なので経年変化による個体差が激しく「あたり」のレンズが来るまで次々と買ってしまった結果だ。外観はMマウントの物よりさらに小さく、写りに関しては「こんな古いレンズでもこれだけ写るんだ!」と感激した。

エルマー2.8[m・feet]併記
次に買ったのが「ズマリット50ミリF1.5」このレンズもかなりの癖玉。このレンズの発売当時はまだF1.4まで明るくできず今どきはありえないF1.5という半端な明るさ。エルマーのF3.5に比べると2絞り以上明るいハイスピードレンズで贅沢品だったはずだ。癖玉と言われるわけは開放にある。無理して明るくしているため開放絞りではにじみが多い。さらにこの時代のコーティングが弱いのか、レンズ自体が柔らかいのか前玉に拭きキズが出やすい。ハズレのレンズを買うと傷だらけの物があり、さらに激しくにじんでしまう。僕のレンズも薄い拭きキズはあったが比較的良好で、開放で幻想的なにじみを楽しみ、F2.8まで絞るとエルマー2.8レベルに画質が向上し、さらに絞るとさらに画質が良くなる。絞りによって明るさを加減するだけではなく、画質をコントロールできるレンズで、この「癖」を上手くコントロールすれば1本で3度美味しいレンズになる。

ライカの50ミリは種類が豊富で、「ズミルックス50ミリF1.4」「ノクチルックス50ミリF1.2」「ノクチルックス50ミリF1」さらに現行品で「ノクチルックス50ミリF0.95」という超高速レンズもある。
ちなみにこのレンズのお値段118万円
もちろんこんな高いレンズは持っていない!

恐ろしやライカレンズ!

さらにつづく

2012年1月3日火曜日

ライカレンズを全部買う その2 [エルマー3.5cm]

僕は明るい大口径レンズより、開放が暗めのレンズの方が好きだ。理由は色々あるが、
1)口径が小さいので、全体にコンパクト
2)無理に明るくしていないので、性能も良い(収差が少ない)
3)明るいレンズより値段が安い
3番目の「値段が安い」が、最も暗めのレンズを好む理由である。
一眼レフの場合、暗いレンズはファインダーが暗くなってしまい長く使っていると目が疲れてしまう。しかし、レンジファインダーカメラは暗いレンズを付けてもファインダーの明るさが変わるわけではないので、暗くても軽くて、しかも安いレンズが好みなのだ。

35ミリレンズは「ズマロン35ミリF2.8」に始まり「ズマロン35ミリF3.5」「ズマロン35ミリF3.5 Lマウント」「ズマロン35ミリF2.8 めがね付き」そして、「ズミクロン35ミリF2」までを買ってしまったことは[その1]で書いた。
ライカレンズの35ミリにはさらに明るい「ズミルックス35ミリF1.4」がある。噂ではライカレンズの中でもいわくつきの癖玉で、こいつをねじ伏せて使いこなすことが出来れば、ライカ使いとしても上級レベルのようである。派手なフレアー、周辺のボケ、コマ収差など、絞りを明けると欠点が目立ってくるようだが、愛好者にはあばたもえくぼで『味』として受け入れられているようである。
そして、中古でもとても値段が高い。一点豪華主義の愛好家には良いと思うが、僕はいまだにズミルックスには手を出していない。
そして、そして、次に手を出したのが「エルマー3.5cmF3.5 Lマウント」だった。
このレンズはライカが初めてだした広角レンズで、Lマウント(バルナックタイプのライカカメラ用)の物しかない。
ライカの良いところはマウントをLマウントから、現行Mマウントに切り替えたとき、L→Mマウントアダプターを供給していて戦前の古ーいレンズまでが現行ボディに付けられるところだ。
エルマー3.5cmF3.5は1932〜1950年に発売されていた物で3群4枚のいわゆるエルマータイプの広角レンズで、間に第二次世界大戦があったため『戦前』モデルと『戦後』モデルに分かれる。
大きな違いはノン・コーティングとコーティングの違いだが、他にも絞り表示が『大陸絞り』『国際絞り』、外装が『ニッケル』『クローム』、距離表示が『メートル』『フィート』など、様々なモデルが混在している。何れにしても製造から70年前後の時を経ており、個体差が非常に大きい。
僕がこのレンズを探していたときも中古店の店主に「あれはボケ玉で使えないよ」という意見も聞いた。
結局中古店で1本、ネットで2本の計3本のレンズを購入し、撮り比べて一番気に入ったレンズを1本残して2本のレンズはすぐに売ってしまった。
気に入ったレンズは1941年製戦前型、大陸絞り、メートル表示の物で、[ Heer ](陸軍)と書かれた軍用の物だった。70年前の物とは思えないすばらしい写りで、少し線の太い描写が古さを感じさせるものの、すでにこの時代にレンズ設計は完成していたと思わせるものだ。
ついでに、このレンズに似合うであろうバルナックタイプのライカカメラ [ lllf ]とファインダーもセットし、クラシックスタイルでの撮影を楽しんだ。
実際はものすごく不便。
フィルム装填はほとんど一回では上手く出来ない。ゴッセン露出計で露出を測るのだが、絞りは6.3とか9とか変な数字だし(普通は5.6、8、11と表示される)、シャッターも50、75、100(普通は30、60,125)だし、ピントを合わせるファインダーとフレーミングするファインダーが分かれているし・・・逆に、今のカメラがいかに便利かを確認できる不便カメラだが、儀式のようなその不便な操作をも楽しむ・・・完全に病気だ。

さてその後もさらにエスカレートし、50ミリ、90ミリと次々レンズを買っていく、果てしなく続くライカレンズの世界は

つづく

2011年12月27日火曜日

バラードをリピート

ニコンD3






12月の午前4時。まだ外は暗い。
遥香は後部座席で軽い寝息を立てて眠っている。心なしか寝顔が微笑んでいるように見える。
僕は起こすのがかわいそうなので、そのままそっとしておくことにした。

「遥香!よかったヨ最高!先生も感心してたよ『なかなかやるな』って。クラスのみんな大盛り上がり!!
やったじゃん!」
遥香は興奮状態で友達の絶賛に対して一言も答えられず、控え室になっている体育倉庫前の地べたにへたり込んでいた。
あふれ出る汗をぬぐうのがもったいない。今の興奮にひたっていたかった。
手応えは十分あった。
いける!
そう思えた。
完全に吹っ切れた。

「進路はどうするんだ?」
「歌手になります。!」
「『音大へ進学』か」
「先生違います。音大へは行きません。東京に行って歌手になります。」

遥香は香川県の県立高校を卒業すると、「歌手」になるため東京に出てきた。
何かのオーディションに合格したわけではない。
ほとんど「あてもなく」上京した。
不安もあったが、それにまさる自信があった。
高校3年の文化祭のライブは大成功だった。
それまでも地元の繁華街での路上ライブでは手応えを感じていた。
それが体育館を満員にした文化祭ライブが決定的な自信につながった。

父は最初は反対していたが「大学に行ったつもりで4年間がんばってみろ。だめだったらとっととこっちへ帰ってこい!」と、なかば諦め状態で送り出してくれた。
卒業してすぐ母と二人で上京した。上京したといっても最初にアパートを探したのは登戸だった。あと1駅、多摩川を渡ると東京だ。
遥香にはこだわりがあった。まだ東京に住んではいけない。一歩手前の川崎市に住んで、歌手で成功したら都内に住む。そう決めていたのだ。登戸の駅周辺で不動産屋を探し、飛び込みでアパートを探した。3件目の物件が気に入ってその日の内に契約をした。駅からは15分ほどで少し遠い。しかし、道を隔てた反対側に多摩川の堤防があってそこまで行くと対岸に東京が見える。堤防も広々としていて歌の練習で大声を出せそうだ。
遥香の”東京”生活の始まりだった。

僕が初めて遥香を見かけたのは9月の終わり頃、夏の終わりを感じる季節だったと思う。
その日、僕は九十九里浜にあるプール付リゾートスタジオで、グラビア撮影を終えての帰りだった。
新宿で首都高速をおり、スタッフを駅に落とすため新宿駅南口に向かった。九十九里から高速で2時間半ほどかかり、新宿駅南口に着いたとき辺りは少し暗くなりかけていた。
南口の横断歩道を過ぎたところで車を止め、アシスタントとヘアーメイクをおろした。車のトランクを開けヘアーメイクの大荷物を降ろし、駅方向に見送った後、雑踏の南口広場でギターを弾きながら跳ねている女の子を見かけた。
斜め後ろから見かけただけで顔はよく見えなかった。
どんな歌を歌っていたかも覚えてはいない。
でもきっとその子が遥香だったと僕は思う。

登戸で、駅から歩いて15分くらいで、アパートの窓から多摩川の堤防が見え、堤防から反対岸に東京が見える。
それしか聞いていなかったので遥香のアパートが何処にあるのかわからない。とりあえずカーナビをたよりに「登戸駅」まで行き、駅から地図を頼りに川沿いの道を走り、止められそうな土手の斜面を少し下り、車を止めた。後部座席に子猫のようにうずくまっている遥香をそのままにして、暖房で暖まっている車内の空気を入れ換えようと少し窓を開けた。
車についている車外の温度計は2°を示している。3センチメートルほど窓を開けると、乾いた冷たい12月の空気が車内に流れ込んできた。
暖房で紅潮気味のほほに心地よく感じた。

10月の終わり頃、インディーズレーベルNAOレコードの社長から電話があった。
内容は、インディーズデビューする19歳の女の子のCDジャケットの撮影依頼だった。
日程を調整し、具体的な内容になったところで、
「今その子ここにいるんだけど、今日時間ある?」
「あ、いいですよ。ヴィジュアルのうち合わせしましょうか?こちらから行きましょうか?」
「いや、当日僕立ち会えないからマネージャーと本人連れて今から行きますよ。」
1時間ほどして、
エレベータホールの方が妙に騒がしくなった。
「おっはよ〜ございま〜すっ」
社長とマネージャに連れられたその子はだぶだぶのトレーナーを着て背中にギターを背負ったまま90°お辞儀をして挨拶をした。
あやうくギターのネックで頭を殴られるところだった。
「とりあえずこんな感じなんですけど・・・」と社長に紹介された。
4人でしゃべっているうちに僕は何となく思い出した。
「新宿駅南口でストリートライブやってない?」
「やってます〜。えっ?しってます〜?」
「ひと月くらい前に偶然見かけたけど、きっとそうだと思う。」
「ん〜そ〜ですか?それはラッキィ」

社長のイメージとしては、
真っ白いところからスタートさせたい。明るくポップに仕上げたい。
と言うコンセプトで僕がアートディレクションを引き受けた。
RAW + jpeg
一週間後、
僕のスタジオでフォトセッションが始まった。
サベージのスーパーホワイト ワイドをホリゾントにし、遥香が絵を描いていく。
僕はそれを寄ったり引いたり、音楽をガンガンにかけながら撮影した。
カメラは「ニコンD3」レンズは「AF-S VR Zoom-Nikkor 24-120mm f/3.5-5.6G IF-ED」
設定はヴィヴィッド、RAW + jpeg
jpegでセレクトした後、使用カットのみをRAW現像し、TIFFでデザイナーに渡す。
ライティングは2400WSのコメットを6灯、スタジオの4メートルの高さの天井にバウンスした。
最初に3.6メートル幅のバックペーパーの端から端まで5色のペンキで遥香が虹を描く。さらにそこに太陽や川や家を描き加えてゆく。
その後、自分が着ている白いつなぎに自分で絵を描き、最後に自分の顔にペンキを塗っておしまい。
3時間のフォトセッションが終わった。

僕は窓を閉め、車内は暖まっているので車のエンジンを切った。
背もたれを少し倒し、音を少し絞って遥香のCDをかけた。
5曲のミニアルバムのラストの曲、小田急線を歌ったバラードをリピートにセットした。

遥香は毎日ブログを書いている。
多い日は1日に20〜30回書き込んでいる。
ストリートライブ情報やレコーディング、もちろん「ジャケ写」撮影の様子も逐一ブログに書き込んだ。
僕は撮影の日から毎日遥香のブログをチェックした。
12月24日クリスマスイブの日、遥香のファーストアルバムがインディーズで発売になった。
僕はその日、スタジオでティーンズファッション誌のファッション撮影をしていた。
モデルカットを終了し、物撮りがおよそ100カット。
撮影は深夜におよんだ。
撮影終了後、年内にデータを納めなくてはならないため、引き続きスタジオで写真セレクトを始めた。
12時を過ぎた頃、そうか?今日はクリスマスイブだ。
と思ったとき、遥香のアルバム発売を思い出した。
撮影終了後マネージャーから、「出来次第すぐに送ります。」という申し出を断っていたのでまだ最終的な仕上がりを確認していない。
「イブの夜、自分で買いに行くから。」と約束していたのを果たせそうもない。
そう思いながら、遥香のブログをチェックした。
「マネージャーと一緒にCDショップを営業でまわっています。」
「店頭でミニライブをやらせてもらいました。」
遥香の元気がおどっていた。
しばらく写真セレクトをし、今日はもう終わりにして後は明日にしようと思い、「ViewNX」を閉じ、
もう一度遥香のブログをチェックすると、
「ショップ営業が終わったので、南口でストリートライブをやります。」
「多くの皆さんが、クリスマスイブにもかかわらず、足を止めて聞いて下さいました。ありがとうございました。」
「大変です。うっかりして終電が終わっちゃいました。」00:40
と、書き込まれていた。
僕は遥香の携帯番号を知らない。
遥香がタクシーで帰るところを想像できなかったので、僕はスタジオの戸締まりをして新宿駅に向かった。

クリスマスイブの新宿西口地下ロータリーは午前1時を過ぎても人がごったがえしていた。
タクシーの列をパスして、ロータリーを廻りきった辺りに車を止めた。
「友達の家にでも転がり込んだかもしれない、一回りしていなかったら帰ろう。」と思い
西口の小田急線改札に向かった。
ギターを持っているから目立つはずだ。
改札まで走って行き、辺りを見回すと遥香がいた。
券売機の隅の方で、キャリーカートにアンプとCDを積み、背中にギターケースを背負ったままうずくまっていた。
ゆっくりと近づき、しゃがみ込んで声をかけた。
「遥香、ブログ見たよ。頑張ったみたいだね?」
遥香はゆっくりと顔を上げた。
「わかるかな?ジャケ写撮ったカメラマンだけど?」
「わかります〜。わかりますよ!どうしたんですか?何でここが?」
「だから、ブログ見たよ!『終電乗り遅れました!』って書いてあったから、迎えに着たよ。家まで送ってあげるから・・」
「サンタだ〜!!!サンタが着た〜!!」
「声が・・大きいよ!人がいっぱいいるから、し〜っ!」
「だって〜どうしようかと思っていたんだもん。このままクリスマスイブの夜、『私は路上で死ぬんだ』って思っていたんだもん。」
「そこに車止めてあるから、寒いから、そこまで行こう。」
僕は遥香のキャリーバッグを引いて、涙ぐんでいる遥香を車に乗せた。

約束より少し遅れたけど、僕は発売の日に遥香のファーストアルバムを本人から買った。

午前6時を過ぎると、辺りが少し明るくなってきた。
東の空が、紺色から青色に変わってゆく。
僕は車から出て堤防から多摩川越しに東京を見た。
相変わらず空気は冷たいが、まもなく日が昇る。

朝の気配を感じる澄んだ空気が心地よかった。




この話はフィクションです。
登場人物は実在しません。
写真はイメージです。

2011年12月26日月曜日

ライカレンズを全部買う その1

ズマロン35ミリF2.8
ライカにはまってしまった僕は、M3からM6までほぼフルラインナップでライカレンジファインダーカメラを買ってしまった件は、
「ライカその3」に書いた通りだが、もちろんカメラボディだけを買っていたわけではない。

ミノルタCLEでレンジファインダーカメラの魅力を知った僕はその後、コンタックスG1でレンジファインダーカメラ熱が再発、その際G1がカバーしていない135ミリレンズを使おうとしてライカにのめり込んでしまった。
そんなわけで、最初に買ったライカレンズは「エルマリート135ミリF2.8」だった。このときは小さなボディに大きなレンズであまりライカレンズの魅力を感じることはなかった。しかも広角系のM6ボディに望遠135ミリを使うのに不便を感じた位で、まだレンズにははまっていなかった。しかし望遠系ボディを求めてM3を買ってしまい、このM3に使おうとライカの標準レンズ50ミリを探し始めたあたりからライカレンズ熱におかされてしまったようだ。

元々はカメラコレクターではなかった。仕事で必要なカメラ、レンズにしかそれほどの興味はなかった。次々と仕事で使えないようなクラシックカメラを買い始めたのはこの時期、写真撮影と平行してもう一つカメラにかかわる仕事を始めていたからだった。
某出版社から出ていた「中古カメラGET !」という雑誌に古いカメラ、レンズの試用レポートを書き始めたのだ。企画は全て持ち込み企画で「二眼レフカメラ ローライフレックス」だったり、「レア物ニッコールレンズ」だったりと自分の持っているカメラの中から、その使い勝手や良いところ、悪いところ、使用上の注意点などを毎号連載で書かせてもらっていた。中でもニコンとライカに関する記事が読者に好評だそうだ。そこで読者の疑問に載っかって僕自身も興味があるカメラ、レンズを自分で購入し、その使い勝手をレポートして記事にしていた。つまり、この記事の原稿料は全て機材購入にあてていたのだ。

デュアルレンジズミクロン50/2
M3には50ミリを付けてみないと本当の良さがわからないだろう、と様々な情報を集めているうちに興味がわいたのが「デュアルレンジ ズミクロン50ミリF2」だった。
レンジファインダーカメラは一眼レフカメラに比べて近接撮影に弱い。普通の50ミリ ズミクロンでは1メートルまでしか近距離撮影が出来ないがデュアルレンジは約45センチメートルまでの近接撮影が可能である。このため「メガネ」と呼ばれるファインダーアタッチメントが付き、2重の距離計カム構造になっていたりとメカ好きにはたまらない複雑な仕掛けで出来ており、かつ、このレンズの写りがすばらしい。一説によるとレンズを組み立てた後、性能検査をし、結果の良かったレンズをデュアルレンジに組み込んだという説もある。一般の方にとっては『良いレンズ』の定義が難しいと思うので、僕の思う良いレンズとは『欠点がないレンズ』と定義しよう。レンズの良くない部分は周辺部に出る。周辺の像が流れたり、ボケたりするのは×。またレンズ開放時に欠点が出やすい。像がにじんだり、輪郭に色がついたり。そんな欠点がなければよいレンズ。デュアルレンジズミクロンは欠点のない、しかも正確な近接(クローズアップ)が出来る理想のレンズだった。

ここでうんちく。『理想レンズ』とは、
点対点対応、
線対線対応、
面対面対応が出来ているレンズのこと。
つまり点が点に写る。円になったり面にならないこと。
線が線に写る。曲がったり、太くなったりしない。
面が面に写る。曲面になったりしない。
これが理想レンズだが、実際はこれらを崩す収差が発生する。
その収差が少なく抑えられ、発色の偏り(色付き)が無く、使える大きさで、買える値段。
これが僕の思う理想レンズ。

この理想に限りなく近い「デュアルレンジズミクロン」と出会い、どんどんライカレンズに興味がわき、比較的古いレンズから買い始めた。
50ミリの次は35ミリだろうと、次に探したのが「ズマロン35ミリF2.8」
最初に購入したズマロンが正に当たりのレンズだった。開放ではやんわり滲み、絞るとシャープに描写するちょっと線の太い良い味のレンズだった。

このあたりのレンズは1960年頃発売された物で、製造からおよそ50年経過しているため1本1本の個体差で当たり外れが大きい。撮影してみないとわかりにくいため一概に「評判」があてになるとは限らない。

ズマロン35ミリF2.8
ズマロン35ミリF2.8が大いに気に入ってしまった僕は次に「ズマロン35ミリF3.5」「ズマロン35ミリF3.5 Lマウント」「ズマロン35ミリF2.8 めがね付き」
そして、「ズミクロン35ミリF2」へとライカレンズの泥沼へずぶずぶとはまっていってしまった。




つづく

2011年12月8日木曜日

ニコンFから教わったこと・・

「あいつ」が現れたのは12月も半ばを過ぎた頃だった。

僕はその日、卒業後初めての大学の同窓会、兼忘年会に出席した。
同窓会というのも微妙で、社会人になってから数年経ちみんなに誇れるものがあれば勇んで参加するが、そうでないとなかなか参加しづらいものだ。
その日参加したのも6人で、地方にいて参加できない、忘年会がダブって入っている等、参加できない物理的理由は色々あると思うが、実際のところ参加したくないほうが多かったと思う。
そういう僕もちょっと腰が引けていた。
フリーカメラマンになって約1年、食っていくだけの仕事はあるがまだまだ同窓生に誇れる状態ではなかった。
参加した6人は天下のH報堂写真部、K談社写真部、S界文化社写真部、小さな制作会社に就職したら会社が大手に吸収された大手制作会社のカメラマン、フリーランスでめきめき名を上げているファッションカメラマン、そこにフリーランス1年目の僕だ。
「車何乗ってる?」
「俺、ミニクーパー」
「お~、でも機材積めないんじゃないか?俺はクラウンのステーションワゴンだけど相当機材積めるぜ!」
いやな展開になってきた。
「おまえは?」ついに来た。
「俺は・・・VF400」
「なんだそれ?」
「いや、ホンダのバイクだョ。」
「それで仕事行くのか?機材ど~すんだよ?」
「いや、意外と積めるんだ。タンデムシートにカメラバックと、コメットの1200くくり付けて、三脚とライトスタンドはマフラーのところに斜めに・・・」
気がつくと、話題は次にうつっていた。

その日僕は飲めない酒を飲んだ。
1人では絶対に飲まないが、つき合いではビール1杯程度。
1杯で顔が真っ赤になり、ロレツがまわらなくなってくる。
2杯で手の力が抜け、グラスが持てなくなり、
3杯で頭が痛くなる。そこでやめてしまうので、僕にとっては4杯以上は未知の領域だ。
3杯飲んだところまで覚えている。
僕が飲めないことを知っているみんなが「おまえも社会人になってオトナになったな~」と褒めてくれたところまでは・・・

小田急線の中では頭が痛く、下北沢駅では足取りもおぼつかずヨロヨロとアパートにたどり着いた。
部屋の電気を付け、ソファーにドスンと座り込んで一安心した。
頭はガンガン痛かった。

ふと顔を上げてテレビのところを見ると「そいつ」がいた。
大きさは猫位で、身体は白っぽいがむこうが透けて見える。頭は三角形で耳ははえていない。
お腹がぽっこり出た「そいつ」は、僕のテレビ台の上で足を組んでふんぞり返り、腕を組んでテレビに寄りかかっていた。
「ついにきた~。未知の領域・・飲み過ぎると見える幻覚か~?」
『なにやってんだ!』
「何だ、しゃべるのか、幻覚のくせに・・」
『幻覚じゃな~い!』
「幻覚に決まってるだろ、じゃあ何なんだおまえ!」
『俺はカメラの精だ。りっしんべんの性じゃないぞ、米へんの、妖精の精の、カメラの精だ。』

こんなのが出てきちゃったよ。やっぱり飲めない酒は飲むモンじゃないな~。つくづくそう思い目をつぶったまま首をぐりぐり回した。
『オイ!ちゃんと聞け!おまえ何やけくそになってんだ、悔しくないのか?』
まだなんかしゃべってるよ。
『おまえも他の連中に負けない立派なカメラマンになりたくないのか?』
あ~自分の中のコンプレックスがこんな形に表れるんだな~。
「そいつ」はなんだかブツブツとしゃべり続けていたが無視をしてパジャマに着替え、歯を磨いてベッドに潜り込んだ。
後頭部がズキズキと痛んだ。

翌朝、目が覚めて時計を見ると11時だった。外は雨が降っているようだ。
まだ頭が痛い。
今日は一昨日撮影した写真の上がりを届けに行く約束をしている。
いつもはバイクで行くのだが、雨が降っていてはバイクでは無理だ。
電車で届けに行くならもう起きなくてはならない。
12月の寒さに負け、ベッドでグズグズしていると、

『約束を守るのは最低限度のルールだぞ。』
聞いたことのある声が聞こえた。
布団から顔を出してみると「そいつ」がまだテレビの前にいた。
なんだよ~!昨日の幻覚まだ消えないのか?
『だから、幻覚じゃないッ!カメラの精だ。
約束を守る。
挨拶をする。
これ社会人の、いや、人として最低守らなくてはならない常識だ。
早く起きて届けに行ってこいッ!』
僕は飛び起きてテレビの前に行ってみた。「そいつ」は慌ててテレビの裏に逃げ込んだ。幻覚にしては実体がハッキリ見える。
『だめ~触っちゃ。汚れるから~。』

なんだかやっかいなヤツに取り憑かれてしまったようだが、完全に酒が抜ければ消えるだろうと諦めて、顔を洗ってみた。
頭はまだズキズキ痛い。
「そいつ」はまだこっちをにらんでいる。

僕は現像済みポジを雨に濡れないように、2重の封筒に入れてカバンに入れた。
新宿で電車を乗り換え、池袋で地下鉄に乗り換え、出版社に向かった。
バイクだったら30分とかからない距離だが、電車を乗り継いで1時間ほどかかった。
午後1時の編集部は閑散としている。だいたい編集者が全て集まるのは夕方だ。
「午後一に届けます。」と言っても結局相手の編集者はまだ来ていなかった。
「あの変なヤツにせかされなければみんながいる夕方に届けに来たのに・・・」
と、独り言をブツブツ言いながら副編集長に「おはようございま〜す」と挨拶をし、「○○さんの写真の上がりここに置いておきま〜す。」と、まわりに聞こえるようにちょっと大きな声で言って帰ろうとしたとき、
副編集長に呼び止められた。「ちょうどいいや。1月にオーストラリアロケがあるんだけど10日間ほど予定もらえるかな?」

帰り道、書店によってオーストラリアのガイドブックを買って、足が地に着かないような感じで、鼻歌を歌いながらアパートに向かった。
すっかり昨日の酒も抜け、頭痛もとれていた。

アパートの鍵を開け自分の部屋に入ろうとしたとき、中から人の声がした。
恐る恐るドアを開けて見ると、テレビがついているようだ。
朝あわてて消し忘れたか、と安心して中に入ると「あいつ」が僕のソファーに座ってテレビを見ていた。
『どうだった?なんか良いことあった?』


「あいつ」はそれから1週間、うちに居候をして、その間
『お礼状書けよ!』とか、『靴はちゃんと磨け!』とか、
何だか躾係のように毎日毎日小言を言って僕に指図をした。

『最後にな〜、大事なことを言うからしっかり覚えておけ!
カメラは使うときは厳しく使い、使い終わったらやさしく手入れをしろよ!
そうすればず〜と使えるから。』
そう言って「あいつ」は段々透明度が増していって、消えてしまった。


年が明けて、オーストラリアロケの用意をした。
「ボディはこれとこれ、レンズは念のため予備も持って行こう。」
そんな独り言を言いながら、普段使わない機材を保管しているカメラバッグを開けてみると、
なつかしい『ニコンF』が出てきた。
高校時代のあこがれのカメラで、とっくに製造は終了している。
アシスタント時代に中古カメラ店で一目惚れをして衝動買いをした中古品だ。
最初のうちは嬉しくて毎日のように触っては磨き、空シャッターを切って楽しんでいた。
実際は、時代遅れのカメラで実用にはならない。
そのうち飽きてしまい、バッグの中に入れっぱなしになっていた。
何だかピンと来るものがあって、ロケとは関係ないが『ニコンF』を取り出した。
ひんやりと冷たく、ずしりと重たい感触が手に伝わってきた。
巻き上げてみたが、ゴリゴリと重たい。キャップを外しファインダーをのぞいてみると周辺にカビが生えている。
何年かほったらかしにしていたせいだ。
僕は『ニコンF』をテレビの前に置いた。

オーストラリアロケから帰ってきて、僕はすぐにニコンのサービスセンターに『ニコンF』を持って行った。
製造終了後何年も経っているが、部品交換をともなわない点検、整備は今でも可能だ。

1週間ほどして「あいつ」は帰ってきた。
今度はカメラバッグにしまわず、テレビの前にセーム皮を敷いて「あいつ」を置いた。

お互いにいつでも見える場所だ。
それからの僕は仕事がどんどん忙しくなっていったが、
1日1回は「あいつ」を磨き、そして話しかけるようになっていた。
「あいつ」がしゃべることは無かったが、気持ちは通じている、そんな気がした。

2011年12月6日火曜日

ライカその3 コンタックスG1きっかけでライカにのめり込む

M6 Leitz
ライカM6とミノルタCLE、コンパクトなボディ2台にMマウントロッコール28ミリと90ミリを付け、40ミリを予備に持ち歩く。
1985年に本物のライカを新品で購入してから、こんな軽装備でも仕事が出来る事を知った僕はしばらくの間ライカでレンジファインダー撮影を楽しんだ。しかし、中判撮影が増えるに連れ、ライカの仕事での出番は減っていった。

その後のライカはチタンメッキのM6をだしたり、特別なロゴマーク付きを限定生産したり、とても進化と思える変化がなく過ぎていた。

時は経ち、1994年京セラから画期的レンジファインダーカメラ「コンタックスG1」が発売になった。
チタン外装
オートフォーカス
実像式ズームファインダー
カールツァイスレンズ
ライカM6とほぼ同じ大きさで電動巻き上げ、巻き戻し
いっこうに進化しないライカM6に比べ画期的に進化した次世代レンジファインダーカメラとして多くのファンを獲得した。
中には『ファインダーの見えが悪い』『オートフォーカスの精度が悪い』などと批判的な意見もあったが「ライカとは別物のレンズ交換式AFレンジファインダーカメラ」として好評を博した。
値段は少々高いがライカと比べればベラボーに安い。
僕はすぐに飛びついてG1ボディと28ミリ、90ミリの2本を購入した。
その頃のカメラ雑誌では盛んにライカレンズとカールツァイスレンズを比較したり、ライカボディとG1ボディを比較したりの記事が花盛りだった。
前評判の高かったカールツァイスレンズは実際使ってみると適度のコントラストと硬すぎないシャープさで魅力にあふれたレンズだった。
実は、G1購入の資金に充てるためミノルタCLEと3本のレンズを手放した。
ライカはM6ボディ1台、レンズはなくなっていた。

「G1を仕事で使おう」と思ったが、何かが物足りない。
広角は28ミリで十分だが、望遠が90ミリまででは人物アップが撮れないので、もう少し長いレンズが欲しい。しかしコンタックスG1システムにこれ以上の望遠を望むことは不可能だ。
そこで思ったのが、広角28ミリはG1で、望遠はライカM6に135ミリを付けよう。
ライカのレンズはどれも高価だが、望遠系は余り人気がなく中古でとても安く手に入る。
それまでは仕事用カメラやレンズを中古で一度も購入したことがなかったが、ライカは別である。何しろ新品は高すぎる。

何軒か中古ライカレンズを扱う店を当たって、テレエルマー135ミリF2.8を65000円で購入した。
早速ライカM6に付けてみた。
広角28ミリに対応したM6に135ミリを付けると撮影範囲を示すカギカッコ 「  」が中央のほんの一部を示す。写る部分が拡大されるわけではないので、ハッキリ言って見やすいものではなかった。初のライカレンズも生かしようがないのか、と思ったとき「ライカM3はどうか?」と思いついてしまった。

1954年発売になったライカMシリーズの最初のカメラである「M3」は50ミリと、90ミリ、135ミリに対応したどちらかというと望遠よりのファインダーである。
後に発売になった「M2」は35ミリレンズ対応の広角系ファインダーである。当時のライカ使いは50ミリ以上はM3で、35ミリはM2で、と使い分けていたと聞いた。
ならば、135ミリ用に「M3」はどうか?
このとき既にいわゆるライカウイルスに感染していたようで「135ミリ以上は一眼レフの方が使いやすいよ」と言う自分の中の正しい考えがウイルスによって打ち消されていたようである。

そして熱におかされ正常な判断が出来なくなった僕は「コンタックスG1」そっちのけに、ついに「ライカM3」を購入してしまった。
値段は10万円をちょっと越えた程度の、M3の中では『格安』のものを選んだ。
一眼レフが「カシャーンッ」だとすると、
ミノルタCLEは「カシャ」で、
ライカM6は「コト」っとシャッターが切れる。
と以前書いたと思うが、M3はもっと静かで「・・」
それはオーバーだが、以前から「Mシリーズの最高傑作はM3」と聞いていた意味がわかってしまった。
それから、
M2
M3と同じ感触で35ミリ用広角ファインダー付「M2」を購入。
M3はフィルム装填がM6よりさらに難しくなっているが、M2に「クイックローディングスプール」を付けるとM6と同じようにフィルム装填が出来る。
ならばM4の方がM6に近いだろうと「M4-2」も購入。
「露出計が入っていないからライカは使えない」と思っていたなら露出計内蔵「M5」を買わなくては、と・・「M5」も。
同時期に発売されていた「CL」も買わなくてはと、
気付いてみると、

M3ダブルストローク
M3シングルストローク
M2クイックローディングスプール付
M4-2
M5 2吊り
M5 3吊りブラック
CL
M6[Leitz]
M6[Leica]
CL

細かな説明はしませんが、おかしいことだけ解って下さい。
これらのカメラ何に使います?
仕事?
あ〜〜もう完全にライカ熱・・・

コンタックスG1きっかけに完全にライカウイルスに冒されてしまった僕は
もちろん、ボディだけでは収まらず、
レンズも全部買う暴挙に至る。


以下次号

2011年11月19日土曜日

ライカその2 「M6」でライカにはまる

ライカM6
海外でのスナップ撮影でレンジファインダーカメラの魅力を知った僕は、それから「ミノルタCLE」を仕事で使い始めた。
ところで、本家のライカは当時どうだったのだろう。

当時のライカは日本製一眼レフカメラに完全に市場を奪われ惨憺たる状況にあった。レンジファインダーカメラは「ライカM4-P」というM4のファインダーに28ミリを加えたカメラが製造コストの安い「CANADA」で作られていた。順番としては
M3に始まり、広角ファインダーを組み込んだ
M2が続き、M3とM2を足して使いやすさを向上した
M4があり、大きさはそれまでのMシリーズより大幅に大きくなってしまったが「露出計が内蔵された」
M5があり、さらにミノルタの協力でコンパクトに仕上げた
CLが続き、しかし安価で高性能の日本製一眼レフに市場を奪われ、人気は回復できずライツ社は売却され、露出計を省き製造コストを下げた
M4-2が販売され、カナダ工場で
M4-Pが製造されるといった状況だった。

本格的に仕事で使うにはボディが2台必要だ。1台メイン、1台予備。あるいは広角と望遠用に各1台、という使い方をするからだ。
しかし露出計の内蔵されていない「ライカM4-P」を買う気にはなれず、欲しいレンジファインダーカメラは見あたらなかった。
レンジファインダーカメラは一眼レフほど目立たないので、仕事以外でのスナップ撮影をするのに向いている。スナップ撮影の場合相手に気付かれないよう、風のように撮影するのが極意だ。
露出計の入っていないM4-Pでは厳密な露出が求められるカラーポジは撮影できない。

MADE IN GERMANY
そんなライカ社の巻き返しが1984年に発売になった「ライカM6」だった。
M4-Pと大きさは変わらず、露出計を内蔵した。M5が露出計が内蔵された最初のM型ライカだが、露出計のせいで大きさが大きくなってしまい『弁当箱』と揶揄され不評をかった。製造もドイツに戻したM6の前評判は好評で、ライカファンにすぐに受け入れられた。
日本での販売価格397、000円
品薄で、発売された1984年に僕は実物を見ることはできなかった。

翌1985年、オランダでの撮影の依頼を受けた。オランダ政府観光局とKLMとのタイアップで雑誌8ページでのオランダの観光ガイドだった。
一週間の予定で現地滞在5日間
最初の2日間はアムステルダム市内で運河や広場、ゴッホ美術館やアンネフランクの家などを撮影した。メインカメラはニコンF3だが、この時もミノルタCLE に28ミリをつけて常時携行していた。アンネフランクの家は「狭い隠れ家に2年間も暮らした」と聞いていたので超広角の20ミリを用意して撮影に臨んだが、意外と広い。家の実家より広い。悲しくも日本人がいかに狭いウサギ小屋に住んでいるかを実感した。3日目は風車で有名なザーンセスカンス、4日目はデルフト焼きのデルフトに足を伸ばした。ここまでは観光局のガイドの案内があったが、最終日は予備日でフリーになった。編集者と二人でアムステルダム市内をぶらぶら歩きながらスナップをしていると大きなカメラ店があり、のぞいてみるとそこに「ライカM6」があった。
店をいったん出て近くのカフェで休憩しながら悩んだあげく、編集者をカフェに残したまま急いでカメラ店に戻り
ライカM6を買ってしまった。
確か免税で300、000円くらいだったと記憶している。
 そしてこの時の撮影料は8ページで200、000円だったと思う。
急いで編集者を待たせているカフェに戻り、CLEに付けていた28ミリ をM6に付けてライカ初ショットをアムステルダムで撮影した。

この構造がフィルム交換を難しくしている。
ホテルの部屋に帰ってじっくりライカを観察した。
先ずフィルムの装填が難しい。歩きながら、立ったままではとてもフィルム交換は出来ない。少し慣れてからもフィルム交換をなんどか失敗した。
シャッター音は秀逸だ。
ミノルタCLEのシャッター音が小さいと思っていたが、さらに小さい。
ニコンの一眼レフが「カシャーンッ」だとすると、
ミノルタCLEは「カシャ」で、ずいぶん小さいと思っていた。ところが本家の
ライカM6は「コト」っとシャッターが切れる。
これが本当のライカなのかとその夜はフィルムを詰めずにシャッターばかり切っていた。
1/30以下になると小さく「シャンシャン」と内部でスローガバナーの音が聞こえるのもたまらなくいい音だ。
フィルムを詰めずにシャッターを切る。ライカ好きにとってたまらない時間である。
ファインダーはでかい。
ファインダーの善し悪しは金額で決まってくるらしい。内部にプリズムやガラスが詰まっていると画像が大きく見やすいファインダーが出来るが、金額的には高くなる。
この高価でガラスが詰まったファインダーがライカの売りである。
ライカはレンズを交換すると自動的にファインダーフレームが切り替わる。50ミリを付けると50ミリのフレーム。28ミリを付けると28ミリにフレームが「 」こんな形で現れる。
しかし、ミノルタCLE用の28ミリを付けても、35ミリのフレームが現れる。
Mマウントは共通だがこの辺が完全互換ではないところである。

さて日本に帰ってから、僕はライカ、ミノルタセットでモノクロインタビューのほとんどの仕事をするようになった。
レンズはミノルタの28、40,90ミリの3本のみ。
念のためニコン一式を用意してはいたが、ほとんどが車に積みっぱなしで出番がなかった。

そしてしばらくして、仕事がファッション撮影や表紙撮影にシフトして徐々にライカの出番が減っていった。

その後何年かして、あることがきっかけになり僕のライカ熱がぶり返す。
そしてついに、『ライカを全部揃える』 暴挙にいたるくだりは、
次回以降に・・・。

2011年11月6日日曜日

ライカその1 僕の「ライカ夜明け前」

カメラブログをここまで書いてきて、まだ「ライカ」が出てきていない。これは大変、片手落ち。
そんなわけで、今回はライカの話。

前にも書いたが、僕がカメラマンになった30年ほど前は広告系カメラはハッセルブラッド、報道系カメラはライカというのがまかり通っていた時代。
僕もカメラマンになってすぐハッセルブラッドを手に入れたのは以前に書いた通り。
「ハッセルは仕事で使うけど、ライカは仕事では使えない。」と、ライカには全く興味がなかった。

カメラマンになって1年ほど過ぎて、安定的に仕事が入ってくるようになって経済的に余裕が出てきた頃、ちょっと気になるカメラがあった。
「ミノルタCLE」
ミノルタはライカと提携していて、それ以前に「ライツ ミノルタCL」という小型カメラをだしている。レンズ交換可能のレンジファインダーカメラで、マウントはライカMマウント。
しかしこのカメラは40ミリと90ミリが供給されていてそれ以外のレンズは基本的に使えない(本当は50ミリなどがつかえる)。
新たに発売になった「ミノルタCLE」は28ミリ、40ミリ、90ミリが供給されていて何れもライカMマウント。値段はレンズ3本とボディをセットにしても20万円ほどで、ライカのレンズ1本の値段でCLEがシステムで揃う。
今で言う「がんばった自分へのご褒美」として、一式購入したのが僕のライカの始まり。

もちろん「ミノルタCLE」はライカではない。
しかしレンジファインダーはライカ仕込みのとても明るく見やすい物で、一式揃えても普通のバッグに収まるコンパクトさが気に入った。
当時は普通のコンパクトカメラでもCLEと同じくらいの大きさがあった。コンパクトな上にレンズ交換式、まずはスナップ撮影で試し撮り。
しかし、使ってみるとちょっと違和感を感じた。
高校生になって初めて使ったカメラがペンタックスSP、以来ニコンF2、ニコンFE等一眼レフしか使ったことがない。一眼レフは撮影する状態がファインダーで見える。ピントがぼけていればファインダーでもボケて見える。レンジファインダーは中央の二重像のズレでピントを合わせる。中央部をうっかり見逃すとピンぼけでシャッターを切ってしまうことがある。これに慣れるのにしばらくかかった。
別の例えでレンジファインダーを説明すると、雑誌を丸めて筒状にして遠くを見る。まわりが見えないで筒の中だけが見えるので、見ている物に集中できる。これが一眼レフ。
親指と人差し指で L を作って両手で四角を作って画角を確かめる 「 」 これがレンジファインダー。全体が見えていて写る場所がカギカッコで囲まれる。まわりの状況も見えるからスナップ撮影に向いている。
さらに一眼レフとの違いは音の小ささ。一眼レフはミラーが上がって、シャッターが切れて、ミラーが降りる。一連の音が「カシャーンッ」と響く。レンジファインダーカメラはミラーがないので「カチャッ」と小さい。これもスナップ撮影に向いている。
なんどかテスト撮影をしてフレームの曖昧さや、露出の加減などを把握した頃「がんばった自分へのご褒美」で [Paris] に一週間一人旅に出かけた。
荷物はなるべく減らしたい。写真は精力的に撮りたい。ぴったり合うのが「ミノルタCLE」。

ロッコール90ミリF4
初めて行くパリのメインの目的は アンリ・カルティエ=ブレッソン のような「決定的瞬間」の写真を撮ること。メトロに乗りビュスに乗り5日間パリ周辺をスナップして廻った。

もう一つの目的はフランス製三脚「ジッツォ」を安く買うことだった。パリの比較的中心部にあるフォーラム・デ・アールにある「Fnac」という日本のYドバシカメラのような店に行ってみたが、日本のようにサンプルがおいてない。カウンターで頼むと店の奥から商品をだしてくるシステムのようだ。カウンターで「ジッツォ シルブプレ」と言ってみた。通じない。
「トライポッド」と英語で言ってみた。通じない。
フランス語で三脚のことを何というのかわからない。指三本を下に向けて「スリーレッグ」と言ってみた。
するとジッツォの写真付きカタログをだしてくれた。やっとカタログを指で指し、目当てのジッツォを買うことが出来た。たぶん日本で5万円位の物が3万円程で買えたと思う。ただし、帰りが大荷物になってしまった。

5日間で36枚撮りのポジフィルム30本ほどを撮影し、すっかりCLEは身体の一部になり、風のようにスナップが撮れるようになっていた。

しかしビックリしたのはそれからだ。
帰国して全てを現像して上がりをルーペでのぞいてみてビックリした。
写真に立体感がある。
ロッコール28ミリF2.8
一眼レフの28ミリでは見たこともない立体感が出ていて「これがレンジファインダーカメラなのか」と納得した。
レンジファインダーカメラと、一眼レフカメラではボディの構造だけでなくレンズに大きな違いがある。特に広角レンズに関しては全くレンズ構成が異なる。
たとえば、焦点距離28ミリとはレンズ構成の中心部からフィルムまでの距離のことである。これが小さくなると写る範囲が広くなる。28ミリとなるとレンズがボディ内部にめり込んだ形になる。レンジファインダーカメラなら何の問題もない。ところが一眼レフになるとボディ内部にはミラーがあるためレンズを内部にめり込ませることが出来ない。そこで、広角レンズではない標準レンズの前に強い凹レンズを置いて内部にめり込まない広角レンズを構成している。これをレトロフォーカスといったり、逆望遠型といったりする。
僕は常に逆望遠型広角レンズで撮影していて、本当の広角レンズを知らなかったのだ。

それから、僕は仕事でも積極的にCLEを使うようになった。特にモノクロ インタビュー物での出番が多くなった。インタビュー中を90ミリで、決めカットで40ミリと28ミリを使う。
暗室で8×10にプリントしていると写真の立体感に満足でき、プリント作業が楽しくなった。

そして、「これがライカの良さ」と思って満足していた僕は、後に本物のライカを手に入れてさらに驚きの世界に引き込まれて行くことになる。

2011年10月23日日曜日

ニッコール85ミリと180ミリの 曖昧な記憶


ケイ?
けい子?
記憶がはっきりしない。
僕はケイちゃんと彼女のことを呼んでいた。
僕はリクと呼ばれていた。

ケイちゃんと知り合ったのは僕が25歳の時だ。
僕はこの頃はカメラマンのアシスタントをしていて、フリーランスのカメラマンなるため、時間があれば作品を撮影していた。
ファッションカメラマンのアシスタントをしていた僕の作品の被写体は女の子で、師匠の真似をしてファッション写真風の作品を撮っていた。


モデル代が払えないから頼むのは素人の女の子ばかり。撮影するとモデル代の代わりに写真を大きくプリントしてあげて、その時、次にモデルになってくれる人を紹介してもらっていた。
今から思えば、プロのモデルじゃない素人を大勢撮影したことは後にカメラマンになってから大いに役に立ったと思う。
そして誰かに紹介してもらったのがケイちゃんだった。

ケイちゃんは六本木にある劇団の研究生だった。
小柄で丸顔のケイちゃんはちょっと美人で、キュートで、元気で魅力的な女の子だった。
初めて撮影したのは僕が働いていたカメラマンのスタジオで、夜2時間、作品撮りのために借りて撮影した。
写真撮影には2種類あって、英語で言うと 「Photo shooting」 と 「Photo session」 だ。
人物撮影の場合、フォトシューティングはモデルを自由に動かしておき、カメラマンは良い瞬間を狙い撃ちする。フォトセッションはモデルとカメラマンのコラボレーション撮影になる。モデルと初対面だとお互いにどんな人で、何ができるのか、どうしたいのか解らないから探り合いながら、様子を見ながら撮影する。初めての撮影でも意気投合すれば相乗効果ですばらしい結果が生まれるが、うまくタイミングが合わないこともある。
その日の撮影は、時にクールに、時にキュートに、変幻自在のケイちゃんは被写体としては満点だった。
原宿駅前のビルの4階にあるスタジオで夜9時に撮影が終わり、2階にあるレストランで僕らは食事をした。
撮影終わりのケイちゃんは饒舌で、自分の夢をめいっぱい語ってくれた。
当時は無口だった僕は、オムライスを食べながらケイちゃんの話を一生懸命聞いていた。
「リクさん。」
「ん~。」オムライスを食べている僕は鼻で返事をした。
「今日すごく楽しかった。演技の勉強をしているじゃない? でも、なかなか主役になることは出来ないのよ。わかる? 聞いてる? 」
「聞いてるよ。」
「でも、今日、私、主役だった。すごく嬉しかった。『私女優よ。私を見て。私を撮って。』 って、そんな感じ?  ね~ わかる? 」
「んー わかるよ。でもまだ結果を見てないだろ? できあがりの写真。」
「ううん、絶対いい。見なくてもわかる。」
「1週間くらいでベタ取るから、それ見て写真選んで。気に入った写真プリントしてあげるから。 」
ケイちゃんは聞いていない。
「また撮って。次はロケ。 そうだ。 毎月1回撮影しよう。 絶対いい。 ね? 」
半ば押し切られたようだが、実は僕もケイちゃんをモデルとして、いや女優として評価していた。
素人のかわいい子とはちょっと違う、演じることが出来る秘めたる資質を感じていた。

そんな始まりから僕はケイちゃんをモデルに毎月写真を撮った。
2回目の撮影は代々木公園でロケをした。
3回目は新宿御苑で・・・

そんな感じでほぼ月1でフォトセッションをしながら僕らはカメラマンとして、女優として少しずつ成長していったような気がする。
恋愛感情はまったくなかった・・・

実は、2回目の撮影を代々木公園でした後、原宿駅前でご飯を食べながらケイちゃんが言った、
「私彼氏がいるの。」
僕はなんにも聞いていない。
「サラリーマンの彼氏で10歳年上なの。」
「あ、そ~。」 って感じだ。
3歳年下のケイちゃんは、確かにかわいいが、おテンバな妹みたいな感じで、恋愛対象とは考えていない。
聞いてもいないのに、なんでそんなこと言うかな~と思った。

そんなケイちゃんとの出会いからおよそ1年後、僕は26歳でアシスタントをやめ、フリーランスのカメラマンになった。
ケイちゃんは研究生を終了し、10人に1人しか残れない団員に選ばれ、正式に劇団員になっていた。
月1ではないが、時々下北沢であってご飯を食べながら愚痴を聞いてあげた。
劇団員になっても給料は出ない、劇団公演は年に数回しかない。普段はアルバイトをしながら、テレビや映画、舞台のオーディションを受けて、合格するとバイトを休んで女優をする。
僕はカメラマンになって、実家を離れ下北沢のアパートで一人暮らしをしていた。
雑誌の撮影を一回すると5~6万円にはなり、ひと月に5~6回は撮影があったが、不安定で、1週間なんの仕事もないと、このまま忘れられてしまうんじゃないかと、不安な日々を送っていた。

夜11時くらいに電話が鳴った。
ケイちゃんだった。
「悔しい! オーディションおっこった。」
「仕方ないよ。ケイちゃんが悪い訳じゃないだろ、きっと役に合わなかっただけじゃないか? 」
そんなことを言いつつも、ケイちゃんの気持ちはすごくよくわかる。
僕だって、作品を持って売り込みにいっても必ずしも使ってもらえるとは限らない。
「僕の方がいい写真が撮れるのに、何故『今いるカメラマンで十分』なんて、お座なりな考え方をするんだ」と悔しい思いをしょっちゅうしている。
「電話じゃ気持ちが通じないから、今から行ってもいい?」
「いいけど、帰りの電車なくなっちゃうだろ?」
「いい! 朝までとことん喋る。 タクシーで行く! 下北のどこに行ったらいい? 」
「じゃあ、本多劇場の側の駅前に11時半に待ってるよ。」

駅前のマックはもう閉店していた。
半を少し過ぎた頃、タクシーが止まりケイちゃんが降りてきた。
「どうする? どっか入る? 」
「リクの家は? 」
「家? すぐそこのアパートだけど、『Jazzまさこ』の先・・・ え? 家くる? 」
「いい? だって話したいこといっぱいあるんだもん。」
「わかった。じゃあいいよ。」
「ごめんね、こんな遅くに。」
「いや、別にいいよ。明日撮影ないし。」
「だって、こんな時間に電話できて、私の気持ちわかってもらえるのリクしかいないんだもん。」
「彼氏は? 」
「だめ、サラリーマンだもん、全然わかってもらえない、とっくに寝てるし。」

自動販売機で缶コーヒーをふたつ買って、僕の部屋に向かった。
ケイちゃんは週に2回劇団に行って稽古をしたり、事務処理の手伝いをしながら、様々なオーディション情報でオーディションを受けている。今回も最終面接までいって、落ちてしまったそうだ。
「私何やっているんだろ?
毎日生活のために居酒屋でバイトして、オーディション受けてもみんな落っこちて、
これじゃただの居酒屋の店員じゃん? 」
慰めの言葉もなかった。聞いてあげることで少しでも楽になるならと、なるべく反論せずに相づちを打ちながら聞いてあげた。
「また写真撮って!
じゃないと私、女優終わっちゃう!」

午前2時くらいまで話を聞いて、ケイちゃんはそのまま僕のアパートに泊まった。
「リク、変な事しないでね? 私、彼氏いるから。それよか、リクとはわかり合える親友でいたいの。変な関係になりたくないのよ。」
「わかってるよ。なんにもしないよ。」

ケイちゃんは僕のベッドで、僕は床で寝た。

翌朝は変な感じだった。
男女だけど恋愛関係でもない、
朝は喋ることもなく、2人とも言葉少なく、
駅前のマックで朝食を食べた。

その週の、ケイちゃんがバイトが休みの日に僕らは軽井沢に撮影に行った。
撮影場所はアシスタント時代にロケで行ったことがある雲場池を選んだ。
僕は買ったばかりの「ニコンF3」に、これもほとんど初めて使う「AiニッコールED180ミリF2.8s」を使った。
ファッションの撮影で、うしろをボカして使うには最適のレンズだ。思うようなファッション撮影の依頼がなく初めて本格的に使った。
ケイちゃんはこの日のために白いドレスを買って持ってきていた。車の中で着替え、ケイちゃんは雲場池にドレスの裾を持って足を浸けた。秋とはいえ水はかなり冷たかったはずだ。
僕はニコンF3を三脚に据え、アングルを探した。
今回はフォトセッションではなくフォトシューティングで撮る。
ケイちゃんにはロングで周りの木や緑や池を生かした撮り方をするので、自分で演じて自分で動くように指示した。
足を水に浸けたり、踊るように廻ったり、にらむような表情を見せたり、一人芝居を演じていた。
180ミリを開放で使い、彼女だけにピントを合わせ、辺りをボカして撮影した。
次に、浅間山の麓の鬼押しハイウェイに移動して、長いショールを風になびかせるようにして180ミリで撮影した。

それからしばらくして、
ケイちゃんはオーディションに受かり初め、テレビに台詞付のチョイ役で出演したり、舞台に上がったりと、女優の活動を始めた。
僕も徐々に念願のファッション撮影の依頼が来るようになっていった。

知り合って3年目になった頃、また夜遅くにケイちゃんから電話があった。
タクシーで僕のアパートに来ると、映画出演が決まったことや、来年ロングランの舞台が決まりそうな話を楽しそうに話して、僕の部屋に泊まった。
僕らは床に布団を敷き、電気を消し、隣同士で喋りながら眠りについた。
「いつの日か、僕がカメラマンで、女優のケイちゃんを雑誌の仕事で撮影できたらいいね・・・」
そんな話を目をつぶったまま話していると、

「リク、私のヌード撮って。」
「やだよ!」
「なに! 即答? 」
「だってやだよ! ケイちゃんのヌードなんか・・ やだよ!」
「だめ! 撮らなきゃ! リクには私を撮る責任があるの!」

なんだかよくわからない理屈だが、押し切られて撮影する・・させられる羽目になった。
「スタジオで、うしろから強い光に照らされて裸の私が立っているの・・・」
そんな撮影プランを聞かされながら僕は眠りに落ちていった。

半分眠った状態で意識が遠のいてゆく中、ケイの左手が僕の布団の中にゆっくりと入ってきて僕の右手をつかんだ。
ケイは僕の右手を上からつかむと、そのまま自分の布団の中まで引っ張ってゆき、僕の手を自分の左胸の上においた。
僕はケイの胸のふくらみを感じながら眠りに落ちていった。
「ごめんね・・」
そんなケイの声が遠くで聞こえた。

僕は後輩に頼んで、以前働いていたスタジオを2時間貸してもらう手配をした。
ケイちゃんはダイエットをして撮影に臨んだようだ。
僕の撮影プランは、スタジオ撮影だがストロボを使わず、アベイラブルで撮影しようと考えた。
照明は500wのアイランプ1灯、壁にバウンス。
この日のために「Aiニッコール85ミリF1.4s」を購入した。
それまではニッコール85ミリF2を使っていたが、F1.4がちょうど発売されたので、この機会に購入した。
周りをバウンス用の白いパネルで囲んでニコンF3にトライX。
1/30でF1.4
現像はD76を希釈してフラットに仕上げた。

ケイちゃんに電話をした。
 「こないだの写真、ヌードの、出来たよ。10枚ほど8×10にプリントした。」
「いらない。」
「え! なんで。写真だよ。」
「いらない。
撮って欲しかっただけなの。
写真はいらない。
25歳の私を記録しておきたかったの。
 私はここにいますって・・・」
 「だったらいいけど・・・見る。」
「いい。持ってて、リクが持ってて。」

僕は女心がわかったような、わからないような・・・
とりあえず、印画紙の箱に収めて保管した。

それから何ヶ月か経って、
ケイちゃんから電話があった。
「今、稽古中なんだけど、来月からロングランの芝居が始まるの。東京で2週間、その後、名古屋、大阪、九州まで行って、その後北陸、東北、北海道まで6ヶ月間。」
電話の向こうでケイちゃんの嬉しそうな声が踊っていた。
「後、映画が公開になるから見て。シーンは短いけど健さんと競演なんで・・」

その電話がケイちゃんとしゃべった最後になった・・・・・・



里美から電話があった。

「知ってる?」

里美はケイちゃんと同期の劇団員だ。

「ケイちゃんが乗った劇団のバスが・・」

里美にもモデルを頼んだことがある。

「新潟の十日町で・・」

僕は里美からの電話を切った後、朝刊を改めて開いてみた。
「新潟県十日町市の県道で東京の劇団○○○のバスがガードレールを突き破って転落し・・・
乗っていた劇団員○○けい子さん(26)が全身を強く打って死亡・・・

それから何日か経った。
里美から電話があった。
ケイちゃんの両親が北海道から出てきていて、今、ケイちゃんのアパートの片付けをしている。
東京での話を聞きたいらしい、リクさん来てもらえないだろうか?
そんな内容だった。

僕は、ケイちゃんの写真、唯一手元にあるケイちゃんの写真を持ってVF400で下高井戸に向かった。
ケイちゃんのアパートには初めて行った。
里美とケイちゃんのご両親がいて、荷物を片付けていた。
僕はケイちゃんとの出会いやこれまでのつき合いを話し、8×10が入った箱を渡した。
「ケイちゃんの大切な写真が入っています。ケイちゃんは 『私は今ここにいます』 って言う写真が撮りたかったって言ってました。」
「今、けい子の日記がありましてね。読むと芝居の事の間に、リクさんの話がたくさん出てくるんですよ。それで里美さんにお願いして、連絡していただいたんです。」
「でも・・」
僕は里美の方を見ながら、
「ケイちゃん、彼氏いましたよね? 」
「さ〜そうですか?日記には出てきませんけど。」
「え? 里美ちゃんは聞いてるでしょ? 」
「私は知りません。」

あれからもう30年近く経った。
あの頃のネガを最近になって探してみたが、見あたらない。
ケイちゃんの顔もよく思い出せない。
今となってみると、
ケイちゃんに彼氏はいたんだろうか?
いや、それどころか、
ケイちゃんは本当にいたんだろうか?

僕にはよくわからない・・・
僕は本当に写真を撮ったのだろうか?


※この話はフィクションです。
登場人物は実在しません。

2011年10月14日金曜日

クールピクス 失踪事件 その2

※その1からお読み下さい。


2年程前のことだ。三波さんが東京に出てきて、例によって心霊写真を見せられたとき、
「何処で撮ったんですか?この写真?」との問に、「いや〜いろんな所で撮っているんでどこだかよく覚えていないんです。写真に自動的に撮った場所が記録されるといいんですけどね〜」
「何言ってるんですかありますよ。今どきはカメラにGPSが内蔵されていて自動的に『ジオタグ』って言う位置情報が記録されるんですよ」

その時勧めたのがニコン クールピクス P6000 だった。
P6000はカメラ内部にGPS機能を内蔵していてメタデータに緯度、経度などの位置情報が記録される。
ニコンのブラウザーソフト ViewNX を使うと写真からの情報を元に地図を表示できる。

三波さんはP6000を使っているに違いない。
僕は急いで三波さんのメールの添付書類を保存し、ViewNX2を立ち上げた。
おそらく三波さんも「白いモヤ」が写った写真をViewNX2で見ていたはずだ。だとすると、GPS情報から正確に位置を把握できている。
同じ場所に「白いモヤ」の正体を確認しに行ったに違いない。そして、何らかのトラブルに遭ったのじゃないだろうか。
だとしたら急がないと、本当に大変なことになってしまう。そんな気がして妙に胸騒ぎがした。
ViewNX2が起動するほんの数秒もとても長く感じた。
急いでフォルダーから三波さんの写真を表示して、右側のメタデータをクリックした。
サムネイルの下にGPS情報付を示す地球をかたどったアイコンがついている。
「モデル名:Nikon COOLPIX P6000」ずーっと下にスクロールしていくと緯度、経度が表示されていた。
左上の「GPSマップ」アイコンをクリックすると写真に変わって地図が表示された。

「奥 さんっ!あ、ありました写真。あ、三波さんが僕に送ってくれた写真です。写真に地図が、地図情報が付いていて、何処で撮ったかわかりました。きっと、三波 さんはこの写真の『白いモヤ』をもう一度撮りに行ったに間違いないでしょう。そして何かトラブルに遭って、もしかしたら迷子とか、そんな状況で、きっと、 困っているに違いありません。」
僕は自分に言い聞かせるように早口でまくし立てた。

地図をプリントアウトし、自分のP6000を持って僕は車を走らせた。
僕の無神経な発言が三波さんを傷つけていた。自分が興味を持っていることをハナから馬鹿にするように否定されたら誰だって悔しいに違いない。
そのせいで三波さんが事件や事故に巻き込まれたとしたら・・・。
僕は自分のこれまでの発言を反省し、自分を責めた。
「三波さん、今行くから、きっと無事でいてくれッ!」

新宿から首都高速に乗り、中央高速を走り八王子JCTを過ぎた頃、携帯電話が鳴った。
車のハンドルに付いた受話ボタンを押して電話に出た。
「もしもし」
「しゅ、主人が見つかりました。」
「三波さん?三波さん見つかったんですか?何処ですか場所は?本人から電話があったんですか?無事なんですか?生きてますよネ?・・・・・・・・・・・・・・・・・」


翌朝、僕は富士吉田市にある市立病院前のビジネスホテルを夜明けと共にチェックアウトして、昨夜三波さんが無事発見された樹海の風穴に向かった。
昨夜、情けなさそうに謝る三波さんから聞き出した話によると・・・・

その日夕方5時頃、早めに仕事を切り上げた三波さんは「白いモヤ」が写った場所を目指して車を走らせた。
諏訪市の自宅から写真の場所まで2時間程、迷うことなくたどり着けば明るい内に着けるはずだった。
風穴の駐車場に着いたときは日没少し前だった。
念のため車に積んであった懐中電灯をバッグに放り込んで遊歩道を足早に進んだ。
遊歩道から少し離れた、前回写真を撮った場所を探している内に薄暗くなって来た。急ぎ足で歩き回っているうちに苔を踏んで足を滑らしてしまった。
運悪く滑り落ちたところが2メートルくらいの深さがある窪地で、滑り落ちる途中に木の根に足を引っ掛けてくじいてしまった。
窪地の底で足の痛みで身もだえていたが、我に返り脱出を試みた。
右足の痛みがひどくとても斜面を登れそうもない。さらに運が悪いことに、尻のポケットに入れておいた携帯電話が130キロの体重で押し潰されて使い物にならなくなっていた。
大きな声でなんどか叫んでみたが、暗くなってしまった樹海に人の気配は感じられなかった。
ここで三波さんはほとんど脱出を諦めたそうだ。
幸い窪地の底は落ち葉が敷き詰められた状態でそれほど寒さを感じない。
落ちたときにすっ飛んでしまったバッグを手探りで探し、懐中電灯を頼りにバッグの中をあらためると、車の中で食べるつもりだったおにぎりが2個と500mlのペットボトルが入っていた。
おにぎり1個とペットボトルのお茶を一口飲んで、落ち葉の中に身体を潜り込ませ身体を休ませた。
しばらく眠り込んだようだが、辺りが少し明るくなってきた頃、足の痛みで目が覚めた。
動こうとしたとたん、足が激しく痛んだ。違和感を感じる右足首を触ってみると拳大くらいに腫れ上がっていた。
自分で窪地を上がれないことを考え、持ち物をチェックした。
壊れた携帯、バッグの中にはおにぎりが後1個、500ml弱のお茶、入れっぱなしになっていたカロリーメイト1箱、ニコンクールピクスP6000、予備のバッテリー、手帳、財布、ボールペン、名刺、リップクリーム、メガネ、近視用だから光を集めて火を熾すことは出来ない。
人を呼んだり、誰かと連絡をすることが出来そうな物はなかった。
手帳にここまでの経緯を書き留めることにした。「ここに遺書を書くことだけは絶対ないように」と思ったそうだ。
人の気配がしたら大声を出そう。そう決めていたが残念ながら風の音しか聞こえない。

風穴の案内所のスタッフが朝一番に駐車場に車が止まっているのを確認していた。
夕方帰る時間になっても同じ場所に車が止まったままで不審に思った。
念のため帰る間際に警察に連絡をして、昨夜から止めっぱなしになっているらしい車があることを連絡した。
警察がパトロール途中によって、ナンバーを照会し所有者宛に連絡して三波さんの奥さんが対応、捜索を頼んだ。
僕はその時すでに中央高速を走っていた。
警察と地元の方が懐中電灯を振り、声を上げながら遊歩道の奥まで捜索開始。
三波さんはその声を聞き、大声を上げると共にP6000のフラッシュを暗闇に向けてたいて知らせたそうだ。
およそ24時間ぶりに発見され病院に運び込まれた。
警察からは遊歩道からそれた樹海は「林道から外れての入林は自然公園法・文化財保護法違反となり禁止されている。」と厳しく指導されたようだ。

僕が昨夜病院にたどり着いたとき三波さんは元気そうだった。
しきりに謝っていたが、僕は無事だったことが嬉しくて泣き笑い状態で三波さんをバシバシ叩いてしまった。
それから奥さんがタクシーで駆けつけるまでの1時間程の間に一部始終を聞いた。

病院の前にあるビジネスホテルから風穴までは車で20分程だった。
途中にいくつもの風穴、氷穴の案内表示があった。さらに温泉もある。
三波さんが「白いモヤ」を撮影した風穴周辺を1時間程歩きながらP6000であちこちを撮影してみた。
三波さんには申し訳ないが、僕のカメラには不審なものは写っていなかった。
考えられる事は、
樹海は溶岩流の上に出来た針葉樹林でその下には溶岩が冷えて固まる際に出来る溶岩洞が数多く空いている。
その大きな物が氷穴や風穴として観光地化されている。
近くに温泉もあるのでその蒸気が溶岩洞を通り数キロ離れた場所に吹き出してもおかしくない。
また氷穴と呼ばれる溶岩洞の内部は非常に低温でその付近に湿った空気が流れると冷やされて水分が氷結し霧状に見えることもある。
おそらく三波さんが写真を撮影した背後にそのような蒸気か霧が立ち上りそれが薄暗い樹海の中で光を受けて浮かび上がったのではないだろうか。
その現象を写真に撮って三波さんに見せてあげたかったのだが・・・。

僕は風穴を後にして三波さんが入院している病院に戻った。
東京にやりかけの仕事を残してきたため、三波さんに挨拶をして戻るつもりだ。
病室をのぞくと朝食が終わった後だった。
僕は考えられる「白いモヤ」の正体を三波さんに話した。
「残念ながら写真は撮れなかったけど、たぶんそういうことだと思うよ。」
「そうですか、なるほど」
「まっ、気を落とさず、まずは早く元気になって下さいよ。」
「そうですね。ところでですね、昨日話さなかったんですけど、樹海の中で丸1日横になっていて、結構いっぱい写真を撮ったんですよ。何しろ樹海ですから、いろんな物がウヨウヨいるわけです。きっと写真に写っていると思うんですよね・・・・・」

僕は最後まで聞かずに後ろ手で手を振りながら病室を出てきた。
「だめだ!全然懲りてないッ。」


おわり


この話はフィクションです。
登場人物は実在しません。