2011年9月16日金曜日

彼女のバイクとニコンD3と

 三紗子は右手で喉もとのバックルを外した。
「カチッ」という乾いた音が地下駐車場に響いた。
中指を引っ張り、左手続いて右手のグローブを外すとアプリリアのタンクの上に置き、両手でフルフェースのヘルメットを脱いだ。
くるりと巻いてヘルメットに納めていた髪が「クルン」と踊るように廻り背中で跳ねた。肩甲骨の下まである長い髪を三紗子は左手で掻き上げると、左の鎖骨部分にあるジッパーを右下に向かって斜めに一気に下げ、黒いライダースジャケットの前をあらわにした。
ヘルメットをバイクのミラーに無造作に掛けると、頭を左右に振りながらエレベーターに乗った。
2階のボタンを押し、エレベーターが動き出すのに合わせるかのように左右の肩を揺らしライダースジャケットを脱いだ。エレベーターの天井のダウンライトが三紗子の真っ白いTシャツに反射してあたりを照らした。黒革のパンツのコインポケットから鍵を取り出しエレベーターをおりた。

三紗子の家は元麻布の暗闇坂を上がった住宅街にある3階建ての一軒家だ。地下が駐車場、1階がスタジオ、2階、3階が住まいになっている。
元は俳優をやっていた叔父夫婦の住まいだった。6年前叔父が亡くなり、一人暮らしになった叔母が寂しがるので一緒に住むことを考えていたが、それもかなわぬうち叔母も2年前に後を追うように逝ってしまった。その後、叔父が若い俳優を集めては芝居の稽古をしていた1階の稽古場を撮影スタジオに改装し、2階に一人で住んでいる。3階はもともと叔父がインタビューを受けたりするために作った応接室だったが、今は叔父の俳優時代の資料をまとめて保管してある。

冷蔵庫を開け、中に頭を突っ込むような奇妙なしぐさをしてペットボトルのクリスタルガイザーを取り出した。リモコンでボーズのウェーブレディオをオンにして、革のパンツを脱ぎ、Tシャツとショーツでソファーに転がっているとしばらくしてインターホンが鳴った。
「片岡ですッ!今駐車場に車止めました」
「片岡クン、おつかれ~!悪いけどカメラバッグだけスタジオに入れといてくれる。そしたらあがって下さい」
「はい。鍵はドアポストに入れときますッ」
ロケ撮終了後、三紗子はバイクで先に帰宅し、アシスタントの片岡が車に機材を積んで戻ったのだ。
しばらくしてドアポストにカチャリと鍵が落ちる音を聞き、三紗子はTシャツとショーツを脱ぎシャワールームに入った。

午前2時をまわった頃、三紗子はソファーで目を覚ました。シャワーを浴びた後しばらく本を読んでいたが、ソファーに横になりジョン・コルトレーンの say it を聞いているうちに眠り込んでしまったのだ。ソファーに横たわって4分と経たないうちに眠りに落ちてしまった。
「いけない、セレクトしなきゃ・・・」
と小声でつぶやくと、三紗子は誕生日にもらったピンク色の熊の足の形をしたスリッパを履き階段で1階に下りた。
鍵を開けドアを開けると、真っ暗なスタジオに緑色の人が走る格好をした蛍光灯だけが点いていた。その光を頼りに右の壁をまさぐってスイッチを入れた。7m×9mのスタジオ全体が蛍光灯で浮かび上がった。入って右側の天井から、電動バトンがぶら下がっておりサベージが掛けてある。左側の壁際にパソコンテーブルがあり、その横の60cm角のサイコロの上にアシスタントの片岡が運び込んだカメラバッグが置いてあった。
ベージュ色したドンケF-2のフックを外しカメラストラップを引っ張り上げ、中からニコンD3を取り出した。キーボードを中指の爪で軽くたたくと、27インチiMacが、HDDがまわる音と共にスリープから目覚めた。ニコンD3にUSBケーブルをつないでカメラのスイッチをオンにすると、Macのドックにアイコンが現れニコントランスファーが起動した。「D3」と表示されるまで1~2分かかった。「転送開始」をクリックして処理状況のバーが動き出したのを確認し、階段で再び2階に上がった。
3000枚も撮影するとMacにデータを取り込むのに10分位かかる。この間に三紗子は顔を洗い 、冷蔵庫を開け頭を突っ込むようなしぐさで中を物色した。アボガド1個と皮が少し黒ずんだバナナ2本とクリスタルガイザーが4本、後は飲みかけの赤ワインとマヨネーズが入っていた。
バナナ1本とペットボトルを下げてスタジオに戻ったが、まだニコントランスファーは転送を終了していなかった。
オーディオのスイッチを点け有線をA37に合わせた。メールをクリックして中身を確認していると、それを遮るかのようにView NX2 が起動した。データ転送が終わったのだ。ブラウザーに今日、正確には昨日撮影したモデルの写真が浮かび上がったがまだ動きが鈍い。さらにしばらく待たないと画像表示に遅れが出るのでもう一度メールをチェックして時間をつぶす。スリッパを「パタン」と床に落とし椅子の上にあぐらをかいた。下はグレーのハーフパンツ、上は黒のキャミソールの上にグレーのパーカーを着ている。黒ずんだバナナの皮をむいて傷んだ部分を避けて三口かじり、傍らのゴミ箱に捨てた。ファイヤーフォックスを立ち上げ facebook をチェックする。地球の形をしたマークの横に赤い色で4と書いてある。メッセージを開くと3年前に別れた元夫からメッセージが入っていた。

ViewNX2をあらためてみると3027枚、24カット撮影しているので、1カットにつき120枚撮影している計算になる。フィルムだったら6×6で10本分はちょっと撮りすぎだ。5本も撮れば十分だろう。デジタルになりフィルムチェンジもなく経費もかからないので、撮影枚数は確実に増えた。その代わり撮影データを全てクライアントに渡すわけにはいかないのでセレクトしなくてはならない。RAWで撮影すれば現像処理が必要なので、そこまでがカメラマンの仕事になった。三紗子の場合、撮影時にグレースケールでホワイトバランスをプリセットし、JPEGで撮影している。後処理の手間を少しでも省くためだ。それでも5時間かけて撮影した場合、全カットを見てセレクトし若干の調整を加えるのに約5時間かかる。三紗子はこれからそのセレクト処理をしなくてはならない。
先ず1回、全カットを見ながら目つぶりなど明らかに使えないコマをゴミ箱に入れる。次に画面を拡大しピント外れや表情をチェック、さらに同じ表情同じポーズのコマを省く、3000枚の写真を最低1往復半チェックして約半分に減らさなくてはならない。撮影の後は眼精疲労が激しくセレクトは結構辛い作業になる。

三紗子はMacの前であぐらをかき、左手でキーボードをたたき右手でマウスを操り、だめカットをゴミ箱に入れる。時々首を回したり、腕を回したりしながらだらだらとセレクトをしているとSkypeコール音が鳴った。突然の着信音に一瞬ビックリした。Skype名を見ると facebook にメッセージが入っていた元夫だ。
「今、朝?夜?」受話器のアイコンをクリックすると元夫の声がした。
「今何時?」
「 ん〜と 4時47分」と元夫。
「さっき4時間寝たから朝かな・・」同じ4:47でも寝て起きていたら朝、まだ寝てなかったら夜だ。
「facebookにメッセージ入れたけど見た?」
「 ん〜見たけど無視した。」
「なんだよ〜」
「それよかさッ、なんかD3が最近遅いんだけど何でかな?」元夫は元カメラマンで現在はアートディレクターをやっている。メカ好きで、三紗子より機材に関しては詳しい。
「ニコンD3? 遅いって、何が遅い?」
「なんか・・全部。」
「なんかじゃわかんないよ、撮影?取り込み?」
「ん〜 取り込みとか・・・ぼちぼちD3sに替えた方がいいのかな? D3sってD3とどう違うの?」
「カタログ見ないと詳しくは解らないけど、明らかなのは動画撮影機能と、高感度撮影・・どっちも三紗子には関係ないだろう?」
「撮影は早いの?」
「三紗子のD3はバッファメモリー増設してるだろ・・だったら連続撮影コマ数は変わらないと思うよ。むしろ今のままの方がいいかも・・・ あ〜もしかして、CFカードは何使ってる?あと画像記録モードは?」
「CFカード?・・16ギガ、133x・・もう1枚は8ギガ、ウルトラII」
「記録モードは?」
「それどこ?」
バッファーメモリー増設のマーク
「モニターの下の感度の横に『JPEG』て書いてないか?」
「書いてある『JPEG+JPEG』って」
「あ〜それだな・・バックアップ記録にするんだったらCF 2枚とも早いのにしないと、遅い方の影響受けるから・・連続撮影中にシャッター切れなくなることないか?」
「そ〜それ!あるっ!シャッター押しても切れないの、だいたいい〜時にそうなるんだ、時々三脚蹴飛ばしてる」
「そしたらCFカード替えな、少なくとも400倍速、出来ればエクストリームプロ、660倍速かな?その代わりめちゃくちゃ高いけど」
「え〜いくら位・・」
「1枚3万はしないだろ、2枚で5〜6万かな?カメラ替えるよりは安いだろ?」
「たっか〜い・・わかった、今度替える・・ところでさっ、お腹すいた、なんかご馳走して! 昨日さ〜ロケ終わりでサンドウィッチ食べただけでまともに夕飯食べてないの」
「えっ!今から?」
「うん!」
「朝の5時だぜ〜」
「だってfacebookに『今度ゆっくり食事でもしないか?』って書いてあったじゃ〜ン、あれ嘘か?」
「いや、嘘じゃないけど・・・」
「だったらご馳走してよ〜朝ご飯・・もうセレクト飽きちゃった! Mac動きが遅いしッ!」
「Macが遅いってハードディスクにデータため込んでるんじゃないか?ちゃんと・・」
「わかった、わかったから!なんか美味しいもの!」
「美味しいものって・・こんな時間に・・、そうだ築地!」
「築地?」
「この時間でもやってるし、美味いものいっぱいあるぞ、寿司、マグロ丼、ウニ丼・・」
「ウニ丼ッ決定!!行く行く!ウニ丼!」
「じゃあ・・行こうウニ丼! 俺は10分ででれるぞ、バイクで・・この時間なら30分かからないかな、5時半には行ける、築地。あんまり遅いと終わっちゃうぞ、店」
「わかった。10分で出る。私もバイクで行くから・・5時半築地。ひゃ〜楽しみ〜」
「着いたら携帯に電話くれ、いい店探してっから!」
「OK!  あっ! あと言っとくけど、口説いてもだめだからね」
「ば〜か!ウニ丼食いながら口説くか!切るぞ!!」

三紗子はiMacをスリープにするとスタジオの電気を消し、急いで2階に駆け上がった。

細身のストレッチデニムにデニムジャケットを着てエレベーターで地下駐車場に下りた。時計は5時20分を指していた。
赤とシルバーのアプリリアにまたがり、駐車場のシャッターのリモコンを押した。髪の毛をうしろで束ねバックミラーに掛けてあったヘルメットを手にとった。右手で髪を押さえたまま左手でヘルメットを被ろうとしたが、いったんヘルメットをタンクの上に置くとバックミラーに自分を映しメイクをチェックした。顔を左右に振って小さなミラーに右、左交互に眉とアイメイクを映し確認した。もう一度髪を束ね、長い髪をヘルメットの中に納め、喉もとのバックルを留めた。シャッターは上がりきっている。セルを回しスロットルを開けるとV型2気筒のエンジンが低く唸った。駐車場のスロープをローギアで上ると左手でクラッチをにぎったまま右手で駐車場のシャッターを閉めるリモコンボタンを押し、リモコンをデニムジャケットの胸元のポケットに突っ込んだ。シャッターが閉まるのを待たずスロットルを開けゆっくりとクラッチをつないだ。
まだ日の出前だが、暗闇坂はかなり明るくなっている。三紗子のアプリリアが咆哮をあげ、大黒坂に吸い込まれていった。
三紗子の後ろから風が追いかけていくように見えた。


 ※今回の話はフィクションです。
登場人物は実在しません。

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