2011年9月23日金曜日

僕の沖縄、ニコンF2と・・・。

ニコンF2フォトミックAs ファインダーは後になって替えたもの。
「西表島に行こうと思うんだ。」
「い・り・お・も・て・島? 何処にあるんだそれ?」階段教室の下の席から康平は上半身を後ろにひねって僕にたずねてきた。
「沖縄だよ。それも、沖縄本島から船で17時間かけて石垣島まで行き、そこからまた船で1時間行くんだ。」
午前中の授業が終わりほかの学生たちがぞろぞろと教室を出て行く中、僕は康平に夏休みの計画を話した。
「しかもまだ未開のジャングル状態らしいんだ。日本にもそんなところがあったんだな。」
康平は興味を持った様子でぐるりと後ろを振り返り
「いいな、西表島」
「だろ!いこうぜ西表島」

僕が最初に西表島を知ったのはそのときから半年ほど前、高校3年生も終わりに近い頃だった。各教室に一枚ずつ大きな日本地図が配られ教室の後ろに貼り出された。 先生の説明によると沖縄がアメリカから返還され日本に復帰することになった。それまでは日本地図に描き込まれていなかったのが晴れて、堂々と日本地図に描き込まれた。 それで新しい日本の地図が各教室に貼られたのだ。おそらくニュースや新聞でさんざん取り上げられていたと思うが興味がわかなかったのが、地図を見たとたん俄然興味がわいてきた。沖縄の位置を見てみると東京とグアムのちょうど中間の緯度で亜熱帯、今まではパスポートが必要だったが本土復帰すればパスポート不要。それまでも最果て志向で日本最北端-宗谷岬と、最東端-納沙布岬はすでに行っている。沖縄に行けば最西端、最南端が制覇できると思いそれから色々と調べ始めた。
沖縄は戦後27年にわたってアメリカの統治下にあったので全員が英語でしゃべっているのではないか?と言う疑問はどうやらそうではないことが解り、最西端、最南端は与那国島と波照間島で、与那国島に行く船は週に2便しかないことが解った。そして興味がわいたのが沖縄本島に次ぎ2番目に大きいにもかかわらず、ほとんどが熱帯系ジャングルでいまだに未開の地である西表島だった。

写真学科の学生になった僕は大学1年の8月、同級生の康平と二人で沖縄撮影旅行に出かけた。康平は夏休みに入っていったん実家の金沢に帰り、金沢から大阪、大阪からフェリーに乗って38時間かけて那覇に入った。僕は康平が那覇に着く時間に合わせ羽田から空路那覇に入り那覇空港で合流した。機内で少し頭痛がして、何とか早く直らないかと気をもんでいた僕は機内を出てタラップを降りはじめて、暑さで目眩がした。8月の亜熱帯沖縄の暑さは想像以上で、ターミナルビルに入るまでの間に頭痛が吹き飛んでいた。ターミナルビルで荷物を受け取って出口に向かうと、ガラス張りの向こうで康平が手を振っている姿が目に入った。

僕らは空港から歩いて市内に向かった。先ずビックリしたのは車が右側を走っていることだった。滑走路に沿ってしばらく歩いているとフェンスの向こう側に戦闘機が複数駐機していた。那覇空港は軍用空港でもあり旅客機とは違う戦闘機の爆音に緊張感が高まった。さらに進むと「Bank of America」の大きな看板があり、まるで外国にきたような雰囲気だった。僕と康平は沖縄に来たからにはめいっぱい沖縄を満喫しようと、何かを選ぶときは出来るだけ沖縄らしいものを選ぼうと決めていた。空港から3~40分歩くと、僕らがその日泊まる沖縄ユースホステルがある奥武山公園にさしかかった。ここは運動場や競技場がある大きな公園で、その奥にユースホステルがある。入り口を入ったところにジューススタンドがありそこで小休止をした。飲物を選んでいると見慣れないものがある。
「『ルートビア』ってなんですか?」
「コーラみたいなものだけど少し薬草くさいの、アルコールは入ってないよ」
僕らは迷わずルートビアを選び、一口飲んで卒倒した。サロンパスが口いっぱいに広がったようで、早速沖縄の洗礼を受けた。
ユースホステルに荷物を置くと、僕らはまた歩いて那覇市内を目指した。橋を渡るとすぐに国際通りになる。那覇のメインストリート国際通りは大きなホテルやデパートがあり、そこを3~40分歩き目指す平和通りに着いた。平和通りは東京で言うとアメ横のような通りで、雑多な店が所狭しと並んでいる。通りに入り目についたのは、乾燥した黒い蛇がたくさんぶら下がっていることだった。聞くと蛇ではなくウミヘビを乾燥させたもので滋養強壮用に薬膳料理などに使うものだそうだ。黒蛇の間をぬって奥に入り、何人もに尋ねながらやっと探し当てたのは「米軍放出品」を扱う店だ。
僕らが今回の10日程の旅で宿に泊まるのはこの日のユースホステルと石垣島でのユースホステル1泊の計2泊で、それ以外はテントに泊まる計画だった。そのテントを米軍放出品店で確保しなければ明日から泊まるところがない。幸い大きな店で放出品テントを手に入れることが出来た。康平は子供の頃ボーイスカウトに入っていてキャンプは慣れている。テントに関しては全面的に康平にまかせた。

翌朝僕らはビーチを目指した。目的の西表島に行く前にテントの具合を確かめたかったのだ。未開のジャングル西表で、もし装備に不具合が出た場合何も調達できないことを考えて、ビーチに1泊し装備のチェックをする算段だ。那覇バスターミナルからバスに乗り、目指したのは恩納村のムーンビーチだった。那覇から小一時間だったろうか、旧1号線をひた走り、普天間飛行場、嘉手納基地を過ぎムーンビーチでバスを降りた。ビーチならどこでもよかったのだが、テレビか何かで聞いたことがあるという理由でムーンビーチを選んだ。ところが着いてみるとビーチへの入場が有料だった。すぐに諦めてさらに先に進むとタイガービーチに着いた。ここも有料だ。さらに進むと右手にやたら派手な、しかも手書きで書かれた看板の、「万国百貨店」という店があり「米軍放出品」と書いてある。その真ん前が冨着(ふちゃく)ビーチで、入り口には入場料の表示はない。ちょっといかがわしい感じの「万国百貨店」にも興味があり、今夜の宿泊先は冨着ビーチに決まった。冨着ビーチは大きなリゾートホテルがなく人も比較的少なく、しかし僕らは遠慮がちになるべく隅の方を選びその日の寝床を決めた。グランドシートを引き、支柱を立てテントを張り、ペグを打って固定した。
テントの中に荷物を放り込むとカメラと財布を持って、なんだか怪しい「万国百貨店」に行ってみた。土産物や輸入食料、そして米軍放出品があった。その中から「Cレーション」と呼ばれる野戦食を非常食として、金属製の弾薬ケースをカメラバッグとして購入した。
左のレンズは35ミリ。28ミリはその後手放してしまった。
僕らは二人とも写真学生だ。目的の一番に写真撮影があった。僕は入学祝いに父に買ってもらった「ニコンF2フォトミック、ニッコール50ミリF2」ペンタックスSPを下取りに出して購入した「ニッコール28ミリF3.5」「ニッコール105ミリF2.5」そして長巻フィルムを自分でカットして詰めたTri-Xを20本程、以上が機材の全てだ。これら一式が弾薬ケースに収まり沖縄らしい雰囲気になった。康平もおやじさんから譲り受けた「ニコンF」を弾薬ケースに収めた。

僕らはその日、驚きの連続だった。冨着ビーチはどこまで行っても遠浅で、いくら沖に向かって進んでも胸より深くならない。しかも水が完全に透明で胸まで浸かっても自分の足がしっかり見える。こんなに透明でサラッとしていて塩が入ってるとは思えないと、なめてみると間違いなく海水だった。湘南の海の深緑色をしてちょっととろっとした海水が海だと思っていた僕の目からウロコが剥がれ落ちた。夜になってあたりは完全に真っ暗になり、空を見上げて驚いた。星が怖い程たくさんある。本当に空から星が降ってくるようだった。その中でひときわ明るい帯、それが天の川だと気付いてまた驚いた。僕は生まれて18年間本当の海と空を見ていなかったことに気付いた。

翌日、僕らを乗せた船は那覇泊港から石垣島に向けて出航した。およそ17時間かけて石垣島に着き、船を乗り継ぎ西表島に着いた。西表島は北部に船浦港、南部に仲間港があり南北を繋ぐ道はない。僕らは仲間川河口にある仲間港にたどり着いた。港にはコンクリート造りの事務所があって観光案内所を兼ねている。そばに壊れた大型バスが止めてありそこが船を待つ人の待合所になっていた。到着した船からは僕らの他に数人の乗客が降りたがすぐにいなくなり僕ら二人だけが港に残った。辺りには食堂も店も何もない。案内所には男の人が1人いて、翌日に行く「バスツアー」も翌々日に行く「クルーズ」も全て切り盛りしている。その唯一頼りになる案内所でキャンプをしてもよい場所、それと食堂を尋ねた。歩いていける範囲でキャンプが出来る場所として勧められた場所は港から3〜400メートル離れたところにあり、奥の方にほこらがある神社のような場所の前の広場だった。土は軟らかく草が生えていて寝心地が良さそうな場所を選んでテントを張った。早速カメラを携えて、港、海岸を撮影し、昼食をとる食堂を探した。紹介された辺りを探しても食堂らしい店がない。よくよく探してみると看板ではないが表札程度の大きさで食堂と書いてある民家があり声をかけると家人が現れた。中に入り品書きを出されやっと昼食にありつくことが出来た。店とは言えない民家で、テーブルが2席程あり、品書きには4つ程のメニューが書いてあったと思う。
その後仲間川、仲間崎などを撮影して歩き、さて夕食をどうしようと考えた。半日うろついたが食堂は他にない。また同じ店で夕飯はないと思い、食料品店を探したがそれもない。唯一あった雑貨屋でカップヌードルを見つけよろこんで購入した。
「お湯いただけますか?」
と聞いてみたがお湯はなかった。さてどうやってお湯なしでカップヌードルを食べるか?康平が持ってきた水筒には水が入っている。シェラカップが1個。僕らは海岸で薪になる木を探し、石を並べてコンロを作りお湯を沸かし始めた。水はたっぷりあるが問題は1回に沸かせる量は一人分、康平は1回目を僕に譲ってくれた。火力が弱く沸かすのに10分以上かかっただろうか、僕が食べ始めて、康平の分のお湯を沸かし始めたが康平は待ちきれなかったのか
「結構いけるぜ」
と乾燥したままの海老と麺を食べていた。
その日は歩き疲れて、暗くなるとすぐにテントに潜り込んで寝込んでしまった。
激しい雨音で目が覚めた。
時間は何時かわからない。南国特有のスコールなのかどうかわからないがとにかく激しい。すでに地面に触れていた側はびしょ濡れ、上からも雨漏りがしている。このままでは寝るどころではない。避難できるところは・・・港のバス。康平と意見が一致し、バスまで走って避難することにした。荷物は全部持っていけないので、着替えとタオル、それとカメラを持って行くことにした。早々に準備をして道順をお互いに確認し、
「行くぞっ!」
かけ声と共にテントを飛び出した。土砂降りの上、辺りは真っ暗だ。走って広場から道路に出てしばらく走ると康平が来ていない。
「康平!」
と叫びながら少し戻ると、康平は広場と道路の間の溝にはまっていた。
「メガネを落とした!」
康平が持っていた荷物を受け取り、懐中電灯で溝の方を照らす。康平は溝に手を突っ込んでメガネを探した。
「あった!」
「よし走ろう!」
しばらく走ると港の案内所の自動販売機が明るくあたりを照らしているのが見えた。真っ暗闇の雨の中、自動販売機に照らされてバスがうっすらと浮かび上がっていた。自動販売機に向かって走り、バスのドアを押しあけて中に飛び込んだ。ずぶぬれになりながらも避難場所が思いのほか快適でほっとした。タオルにくるんで抱え込んできた着替はそれほど濡れていない。カメラは防水弾薬ケースのおかげで無事だった。濡れた服をつり革に吊るして干した。僕らはほっとして、今走ってきた間の出来事をお互いに笑いながら話し、しばらくして座席シートの上で眠り込んだ。

翌日はすっかり晴れて、僕らは午前中「島内観光バスツアー」に参加、ハイエースは二人で貸し切りだった。ツアーから戻って昼食をどうするか考えた。例の食堂で昼を食べると、夜もまた同じ食堂で限られたメニューを食べなくてはならない。1日2回、毎日同じ食堂は出来れば避けたい。食堂では夕食を食べ、昼食は別に確保する事を考えたが、食料品店はなく、雑貨屋には缶詰などしか食料は売っていない。バスツアーで走っている間は、いたるところにパイナップル畑があるのだが売っている店がない。港の案内所で聞いてみる事にした。
「すいませんパイナップルが欲しいんですけどどこで買えますか?」
「えっ?パイナップル?畑に行けばあるでしょう?」
「いえ、欲しいんです。買いたいんです。」
「パイナップルが欲しい?だったら港にいっぱい積んであるでしょう?誰かいたら誰かに、誰もいなかったらパイナップルに断って持って行きなさい。」
どうやらこの島ではパイナップルは売っていないらしい。
僕らはさっそく港に行き、パイナップルに断って一人2個づつ頂戴した。
浜に行き、岩の上にパイナップルを置き康平が持ってきたナイフでさばいて1個づつ贅沢に食した。その後僕らは、ナイフさえ持っていればこの島で空腹になることも、喉が渇くこともなくなった。
その夜は、スコールがきたら逃げる用意をして、テントで眠りについた。

翌日も晴れ、「仲間川ジャングルクルーズ」に出かけた。小さなエンジン付ボートで、マングローブの間を抜け上流に向かい探検気分を味わいながらたくさんの写真を撮影した。
クルーズから戻りパイナップルで昼食をとりいったんテントに戻ると、僕らがテントを張っている広場に二張りテントが増えていた。聞くと大学の探検部グループで、島の反対側、船浦港に上陸し浦内川を遡りマリュード滝、カンピラ滝を通り仲間川上流から下って仲間港にたどり着いたそうだ。ここで1泊した後、与那国島に向かうとのことだった。見ると彼らのテントのまわりには白い粉がまいてある。
「あの粉はなんですか?」
「あれはハブよけの硫黄です。」
「ハブよけ?」
「夜寝ている間にテントにハブが入らないようにです。ハブは硫黄が嫌いなので・・、なければ枯れ葉をまいてもいいんです。ハブが通るとカサカサ音がしますから、起きて追っ払えばいいんです。」
「硫黄はどこで買えますか?」
「薬局で買えますが・・・、良かったら使って下さい。この後行く与那国島も宮古島もハブが生息していないので。」
「さすが探検部。」
僕らが夕食を例の食堂で食べてテントに戻った頃には、彼らはもう寝ていたようで、翌朝起きたときにはすでにテントも彼らの姿もなかった。

その日の午後、僕らも西表島を離れ石垣島に戻り、ユースホステルに1泊した後、17時間かけて本島に戻った。

その後、康平はまた船に乗り大阪経由で実家に戻り、僕は1人テントでもう1泊してから次の日の朝、空路家に帰る。最後の日、康平の乗った船を見送った後、僕はまた冨着ビーチに向かった。午後の冨着ビーチは人影もまばらだった。
今回の撮影旅行では、自分にとっての標準レンズである28ミリを付けたままで、50ミリ、105ミリに交換することはほとんどなかった。ビーチで50ミリや105ミリを付けてニコンF2フォトミックで撮影していると、高校生ぐらいの4人グループの女の子がわいわい楽しそうに話をしている。3人は水着の上にTシャツを着ていて、そのTシャツのまま海に入っている。沖縄の女の子達は焼けるのを嫌いTシャツを着たまま泳ぐと聞いたことがあった。が、4人の内1人だけオレンジ色っぽい花柄のビキニを着ており、Tシャツを着ていない。海から上がってもビキニのままで3人の話をニコニコ聞いている。とてもかわいく見えたので思い切って声をかけてみた。
「あの〜すいません。僕、学校で写真の勉強をしているものなんですが、モデルになってもらえませんか?」
「あ、この子耳が聞こえないの。」
「あっ、そ〜なんですか。じゃあ聞いてもらえませんか?モデルやってもらえないか?すぐ終わりますから・・」
隣にいた女の子が「しゃしんの〜モデルをやってもらえませんか?って」
手話ではなく身振りを加えてゆっくりと話しかけると、
「わたし?」と聞き返しコクリとうなずいた。

写真学科に入学して4ヶ月あまり。ほとんど風景や、スナップばかり撮影していてモデル撮影などはしたこともない。
ニッコール105ミリ F2.5 旧タイプ
初めての水着撮影は、使い慣れない望遠レンズ105ミリで、絞りを開け目にして背景をぼかしたり、また28ミリを付けて背景の海をいかした撮り方など、知っている技術を駆使して撮影した。友達3人が興味津々見守る中、30分程撮影した。「ありがとう」とゆっくり喋ってみたが「なに?」と聞き返されたので、手のひらをとって「あ・り・が・と・う」とひらがなで書いてみた。意味は伝わったようで、彼女は「ありがとう」と言葉を返し、ぺこりとお辞儀をした。
待っていた3人に冷やかされるように肩をたたかれながら、彼女たちは4人で楽しそうに帰って行った。僕はその後ろ姿を見ていた。少し進んだ後、一瞬彼女だけが振り返り、笑顔でこちらに手を振って去っていった。

その夜、僕は砂浜にテントを敷き、その上に寝転んだままで一晩を過ごした。星は夜空一面に広がってきらきらと瞬いていた。ずっと目を開いたまま星空を見ていると、いくつかの流れ星が天空を横切った。

18歳の若者2人が沖縄で受けた影響は少なくなかった。
ジャーナリストを目指していた康平は、何か思うことがあったのだろう。1年生が終了した時点で大学を中退した。東京で1年間浪人した後、沖縄の大学に入り直し、沖縄で大学を卒業。高校の国語科教師になった。
僕は卒業後ファッションカメラマンのアシスタントをして、のちにフリーのカメラマンになった。
女性ファッション誌では5月末に発売する7月号で必ず水着特集が組まれる。4月になると海開きをする暖かい沖縄でよく水着ファッションの撮影をする。僕はカメラマンになって2年目から女性誌のファッション撮影を担当し、それから4〜5年間、毎年のように沖縄で水着撮影をした。最初に沖縄で仕事をしたときのカメラはあのときの「ニコンF2フォトミック」だった。



※現在、本島から石垣島への船の定期航路はなく、航空路線に変わっている。
※また、西表島も現在は南北を結ぶ道路が出来ている。パイナップルも有料だ。

0 件のコメント:

コメントを投稿