2011年6月27日月曜日

あこがれのカメラ  「Hasselblad」その1

あこがれのカメラ 「Hasselblad」

 僕が学生の頃は「報道系カメラの最高峰」=ライカ
「広告系カメラの最高峰」=ハッセルブラッドだった。
僕は写真学科の学生の頃から軟弱、お気楽を目指していたので、「戦場に行ってこの悲惨な実情を世界に知らしめよう」などとは一度も思ったことがなかった。中には「ライカでグッドバイ」の沢田教一や「ちょっとピンぼけ」のロバート・キャパのように「戦争の悲惨さを世界に伝えるような影響力のある写真を撮りたい」と言う友達もいたが、僕は「雑誌で女の子の写真をたくさん撮って、本を閉じたら忘れてしまう」そんな影響力のない写真を撮りたいと思っていた。

 そんな僕が卒業後アシスタントについたのが雑誌「non・no」でファッションを撮っているカメラマンU師匠だった。
そのU師匠が使っていたカメラが、ロケではライカ、スタジオではハッセルブラッドだった。
この二つのカメラの大きな違いは、ライカは35ミリフィルムを使うドイツ製の小型カメラで「レンジファインダーカメラ」の代名詞になっている。U師匠が使っていたのはライカフレックスで、これはライカであっても報道で使うようなカメラではない(このライカに関しては近々詳しく書く)。
ハッセルブラッドはブローニーフィルムを使うスウェーデン製 6×6(ロクロク)カメラでライカに比べると機動性がなくスタジオで三脚に付けて使う中判カメラだ。
ブローニーフィルムというのは幅が6cm(35ミリフィルムは文字通り、幅35ミリ)のフィルムで、カメラによって645、6×6、6×7といろいろなサイズで撮影できるフィルムである。フィルムは遮光紙と一緒にリールに巻いてあり、撮影が終わると遮光紙をシールで貼って止める。

 このハッセルブラッド [ Hasselblad ] が今回のテーマ。
ハッセルブラッドはシステムカメラになっていて、レンズ、ボディ、ファインダー、フィルムマガジンを自由に組み合わせて使うカメラである。

レンズ、ボディ、マガジン、ファインダー





さらにバラすと





 
 
















 アシスタントになって真っ先に苦労したのがハッセルのフィルム交換だった。6×6のハッセルはフィルム1本で12枚しか撮影できない。1本撮影するとフィルムを詰めたマガジン交換をする。この交換をするのがチーフアシスタントの仕事。セカンドアシスタントで新人の僕は、撮影済みのフィルムをマガジンから抜き取り、シールをなめてフィルムを封印し、シールに撮影番号を記入し、次のフィルムを装填しチーフに渡す。だいたい3つのマガジンをローテーションで使うが、フィルムが間に合わないと撮影が中断してしまい、師匠に怒られるため必死での交換作業になる。
U師匠は八王子生まれだが、フランスに何年か住んでいたことがあり、日常会話に時々『サバ!』などとフランス語が混じる。特に撮影中調子がいいと「いいね、いいね」が「Good,Good」になり、さらに「Bien Bien」が始まる。Bienはフランス語で、いいね!と同じ意味だが、この「ビアン、ビアン」が始まるともう止まらない。「ビャンビャンビャンビャンビャンビャンビャンビャンビャン・・・・・」と訳がわからないことを言いシャッターを押しまくる。そのビャンビャンに対応できるスピードでフィルムを交換しなくてはならないのだ。
35ミリフィルムカメラだと、36枚の撮影が終わるとフィルムを巻き戻して次のフィルムを詰めるので、ここで時間がかかって撮影が中断してしまう。ハッセルのマガジン交換のほうが途切れることなく撮影が継続できる。これがハッセルの利点でもある。

「今日もビャンビャンが出て調子がいいね!」等と編集者がつぶやく日には、 ビャンビャンのスピードで1日100本ものフィルム交換をしなくてはならない。セカンドアシスタントの僕はフィルムの封印シールをなめ続けるため舌がヒリヒリしてくる。これは切手と同じ、なめると張り付く封印シールで、アシスタント仲間では「コダックよりフジフィルムのほうが美味い」とか「時々メンソール味がある」などとまことしやかに語られていた。
さてそのハッセルブラッド、「いつかはハッセルブラッドを・・・」とアシスタントになってすぐ思い、ハッセルブラッド貯金を始めた。
 前も書いたが、この頃僕はU師匠から一ヶ月25,000円のアシスタント代をもらっていた。30数年前の25,000円だが、たぶん当時の大卒初任給8〜9万円の時代でその約三分の一。
僕は埼玉の実家から通っていたから食費も家賃もかからない。さらに休みがほとんどないからお金を使う暇もない。25,000円の中から毎月10,000円を定額貯金し、2年間で利息を含めて250,000円、4年目で500,000円貯めていた。5年目のある日、「言ってはいけない一言」を言ってしまった僕の言葉が師匠の逆鱗に触れ「明日から来るな!」と、クビになった。

「すぐにカメラマンにならないと食っていけない」と、翌日東京に引っ越し下北沢にアパートを借り、住所が決まったところで電話を引き、電話番号が決まったところで名刺を作り、

僕はカメラマンになった。

 ここまでで普通に貯めていた貯金をほとんど使い尽くした。
幸いにアシスタント時代に撮り貯めていた作品を持って出版社を5社回ったら3社から撮影依頼が来た。
 かけ出しカメラマンの最初の仕事には十分な機材を持ってはいたが、さらに上の仕事を目指して500,000円の定額貯金を解約し
僕はハッセルブラッドを買いに行った。

つづく
ニコンと大きさを比べた、ハッセル結構小さい

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